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エッセイが書けない、嘆き。記憶がうまく掘り起こせない。

「なげき」って打ったら、「投げキッス」が予測変換にでてきた。嘆きの対極の感情。いまはほんのちょっぴりほろ酔い、ほろほろほろ酔いくらい。

いきなり余談から失礼しました。

エッセイが書けないよ〜〜〜
(クソデカ嘆きボイス)


いや、普段からエッセイみたいな戯言をつらつら垂れ流してるじゃん〜って思われかねないのですが、ここでいうエッセイとは毎週日曜日更新していた(※過去形)「あの日、あの街で、彼女は。」のマガジン更新のこと。

35記事目「浜松町駅」までは毎週欠かさなかったのに。40記事目の旗はとっくに視界に入っているというのに、なかなか手が届かない。どうにも足どりが重たい。小気味よく走っていた日々が遠ざかる。

36記事目、初めて毎週更新を「お休み」した後に書いた手放しnote👋

普段のnoteとエッセイの違いは、ちゃんと「過去のわたし」と向き合う時間が必要なこと。普段から記憶のいちばん手前にいるわけじゃないから、きっかけから思い出して、その奥にある引き出しを開けて大事な記憶とともに情景をなんとか言葉に起こしてエッセイにする。ほぼノンフィクションエッセイだからこそ、あまりにも創作感のある過剰な描写にしたくなくて、妥協したくないんだよね。あくまで自分の記憶や当時の心の揺れ動きに忠実に、感覚を研ぎ澄まして、「今のわたし」が「過去のわたし」の肩をとんとんできるくらい近くに感じるまで思い出す。過去のSNSや写真を見返したり、Googleマップのストリートビューを拡大して見まくったり。究極的にエゴなんだけど、やっぱりリアルを残しておきたいから。

手放しnoteから引用。
うん、約3ヵ月前の自分の言葉に
なんの違和感もなく頷ける。想いは変わらず。

追加で補足するなら、最近の私は「過去よりもいま」に重心が乗っかってるから、記憶をうまく掘り起こして辿れないのかもしれない。掘り方も下手っぴだし、見つけた思い出の正体が大切なものだということしかわからない。

思い出したくないのに、忘れたくなくて、なかったことにしたくなくて。忘れたいのに、まぶたの裏に焼きついて離れなくて。手で触れるかたちはわからないのに、鼻の奥に抜ける移ろう季節の匂いと、左胸の深くで鳴る音の輪郭だけは、生き抜いた体に染みついている気がして。
(※前職時代に思いを馳せると、いろんな感情がぐにゃぁ〜って混ざる)


うん、でもやっぱり時の流れは残酷で、新しい記憶に上書きされて、既視感が募っていく。気づけば、前職を辞めた日からもうそろそろ2年になる。新卒時代は2017年まで思い出の海を潜る。そりゃ、鮮明な記憶を呼び起こすまでに時間かかるよね。

なにが言いたいかわかんなくなっちゃった。書かないと書けなくなっちゃうのかも。でも、やめない。どんなにお休みが続いても、納得いくまで続けて、昇華させる。自己満かもしれないけど、ただの懐古じゃない、と思ってる。あとは、エッセイをどうにかこうにか違うかたちに発展させたい企みも密かにある。


まとまらないから、終わりにしよう。また深夜更新だね。

そういえば、走馬灯ってほんとに見えるのかな。保存したい記憶を選べたらいいのにね。ピッカピカの(?)真空パックに詰めるのに。死に際になにを思い浮かべるんだろうね。たった一人の娘もたった一人の孫も顔がわからなくなってきた認知症の祖母を思っては、最近そんなことばかり考えてるよ。なんで大事な人から忘れていくんだろうね、ずっと一緒に暮らしてきた母の葛藤を勝手に汲み取ってはどうしようもなく苦しくて、どんな言葉をかけるのが正解かわからなくなる。血の繋がった親子だけど理想とは程遠い日常だったからなおさら。

脱線しすぎた、家族関係noteは1年以上放置してるからほんとにそろそろ向き合わねば。

おやすみ〜🌙

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