見出し画像

未亡人日記42●「桜のホテル」

 息子が四月から社会人になる。

 今日は会社の健康診断で出かけて行った。そしたら「背が伸びてた」とメッセージが来た。大学生になっても背が伸びるんだな。よく寝てるからかな?

 そういえば、私は30年以上前の、社会人になるこの時期はいったいどうしていたんだろう? と、はるか昔になってしまった記憶をたどっていると、ふいにいまはもうないホテルのことを思い出した。

 千鳥ヶ淵の桜並木の小道沿いにあったそのホテルに、入社日前日、新入社員は招集をかけられて宿泊した。研修期間のほかの2日間は、たしかもっと会社に近いビジネスホテルだった。桜がきれいなこの時期に、そこのホテル宿泊して桜を楽しんでもらいたいという人事担当者の粋な計らいだったと、入社してから聞いた。
(この会社のもう一つ覚えている粋な計らいは、入社10年目のお祝いで、好きな浴衣と帯を選んで、それを着て屋形船に乗ったこと。そのトンボの柄の半巾帯はいまでも持っている)

 その桜のホテルは、たぶんユーミンの曲で歌われていたと思う。桜の時期に新聞の下の方に広告を出していた。

 使い込まれたつやつやした木の感じが落ち着くクラシックホテルで、当時まだそのようなホテルは都内にいくつかあった。いまは新しいホテルができると、大きくてガラスばりでキラキラしていて、自分とは距離があるが、ほの暗い桜のホテルはヒューマンスケールだった。

 ゆっくりランチをしたい時など、会社の先輩や同僚とそのホテルまで足をのばすことがあった。クラシックなスタイルのウエイターのゆったりと落ち着いたサービスだった。

 そういえば自分が結婚するとき、式の前夜に上京してきた両親と泊まったことも思いだした。ああ、今まですっかり忘れていたのに。

 結婚式は桜の季節ではなく、10月だった。当日は雨で、ホテルでドレスの着付けをしたので、プリンセスラインのウエディングドレスの裾をたくし上げながら黒いタクシーに乗った写真が残っている。

 雨でも私はぜんぜん気にしていなかった。雨は恵みの雨で、雨降って地固まる、と思っていたから若いというのは強気である。しっとりとしたクラシックホテルは雨も似合っていた。

 父と一緒に、レストランの入り口階段のあたりで写真を撮ったのが残っている。花嫁の父と花嫁。

 ぎょっとするのは今の私の年齢より当時の父が若いということ。そして父はもう亡いし、なんならダンナももう死んでいる私。そのホテルもない。

 「千鳥ヶ淵の戦没者墓苑は行くべきだよ」

というので当時まだ結婚どころか付き合ってもいないダンナと碑のところに行ったのは、ボートに乗った日だったろうか、どうだろうか? 

 最後に思い出したのだけれど、その30年以上前の社会人になる手前の日、桜が満開で私と未来の夫は千鳥ヶ淵でボートに乗っていたんだよ。

 人生は一瞬で、桜は永遠だよ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?