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未亡人日記48●銭湯と文士村



自分の多動性を友達から指摘された時はムッとしたのだが、実際私は多動なんだなあ、と動いているバスに乗ってちょっと笑っている。自分が意識しないことが人には見えてしまっているというのが恥ずかしく、でも面白いのだ。

五百円で1日有効の券で、都バスの旅を時々する。

今日は土曜日の朝。夫の病院に2年以上通っていた時のバスに今、乗っている。

バスを待っている間はしゅんとした微妙な気持ち。このバスに乗って夫に会いに行き、このバスに乗って帰ってきたことを思い出すからだ。だから、想像してみる。夫はまだ、入院中で、私はバスに乗って会いに行くのだ。

でも、今日の仮の目標は銭湯なのだ。朝8時からやっている町の銭湯。坂の下で降りて、多分こっちだろうと見当をつけ、グーグル先生に聞きながら台地を上がっていく。

おしゃれな外装だが、中は普通の町の銭湯。下足の木ふだをとり、入湯料は五百円。券売機でチケットを買う。広くない。女湯は割合混んでいた。ざっとみて10人以上、20人未満な感じ。洗い場は4列、湯船は奥にあり、モダンな松の絵が描いてある。ジェットバスが2機あって、それがすごい水圧なのだ。骨粗鬆症なら骨折しかねないのでは? というぐらいの勢いのが1台。まあまあ、我慢できる強さが1台。まあまあ我慢できる方に背中を当ててみた。

おばあさん8割、若い女の子がそのほかで、中年は私の他にはいなかった。

脱衣所で、後ろにいたおばあさんが私に「直してあげる」と、めくれていた下着の背中の紐を直してくれた。おばあさんは若い女の子が念入りにスキンケアをしているのにも反応し「綺麗に丁寧にやるんだねえ」と感嘆している。「真似しようと思ってもできない」。別のおばあさんが「この人。若い子が好きだから。ごめんね」と謝っている。

3人のお婆さんたちはひとしきり喋って、一人が帰る時「また土曜日にね」と言い合っていた。

私も退出しようとしてその後に出た。番台、ではなく、病院の受付みたいになっているところのお婆さんに「ありがとうございました」と言ったのだが、お婆さんは私を軽く無視していた。聞こえなかったのかもしれないけど。部外者という感じなのかな。

外へ出ると、さっきの紐を直してくれていたおばあさんが、両足を踏んばって車のこない車道に佇んでいた。タクシーを拾って帰るぐらいの距離からわざわざ銭湯に来ているのだな、と思った。

さて。
ひと風呂浴びたのにまだ朝の8時台なのだ。
どこに行こう? と私は途方に暮れる。なので来たバスに乗る。ダイスを投げるような気持ちで飛び乗る。そしたら、数停留所先で、バスは見覚えのあるところに止まった。夫の第二の行きつけの病院があるJRの駅だった。

夫が死んで以来、初めて来た。
通っていた東洋医学病院、今は違うクリニックの名前になっている。時間が経ったんだなあ、と思う。主治医の先生、元気かな?
夫が「先生、景気いいな、ごっついロレックスしている」と言った言葉を思い出している。

診察の後、処方箋を出されてから漢方薬を調合してもらうまで1時間ほどかかるのがいつものことだったので、マックか、駅ビルのスタバで時間を潰していた。
スタバはあるのだが、大きな本屋だったところはドラッグストアになっている。まだ開店前で網がかかっている。本を取り巻く環境もだいぶ変わってしまった、

スタバに入って、外の見える席に座って新幹線が高架を行き来するのをみながらコーヒーを飲んだ。スマホで撮ろうとしてもなかなか上手く撮れない。

JR駅前のクリニックから、メインの大学病院まで二人で歩いて行ったことは何度かあった。病院のハシゴの日。漢方外来と、抗がん剤のセットの日は、そんなふうにブラブラと歩くような呑気なことをしていた。あれもこれも、健康だったからできたのだ、がんに健康というのも変だけれど。

朝晩、夫の漢方を煎じるのは私の役目で、というかそもそも夫は漢方なんか信じていなかったのかもしれない。
家族ががんになるとジューサーを買って人参ジュースを作ったりすること、ビタミンcの注射をうちに通ったりするのと差があるのだろうか? 調べるだけ調べて丸山ワクチンはやらなかったけれど……。少なくとも2人の主治医を持てているのはいい、と私は思ったり本人に言ったりしていたが、夫は私の「何かしなければ」という盲滅法の情熱に付き合ってくれていただけだったのかもしれない。
「肝臓をできるだけ労りたいから」と言っていた、あれはやんわりとしたNOだ。遠い後悔が湧いてくる。

10時になったので、駅前の文学館に行ってみた。
私が口開けの客だった。夏休みとはいえ、ここにたくさんの人が来るのは想像できない。文士村。文学が力を持っていた時代、絵画や演劇はあったが、今のように映画や音楽(規模が今より小さい)、Vチューバーがいないからクリエイティブな才能はほぼ、文学に投入されたからではないだろうか、と思う。

芥川龍之介の特集が行われていた。

私は芥川の小説にはそれほど興味がないのだが、彼の息子の一人、芥川也寸志が出身中学校の校歌を作曲しているので、そこに親しい気持ちをいただいている。(作詞が「赤い鳥」などで活動していた地元の詩人だ。)そして私の母校は、少子化のため、この3月に市内の他の中学校と合併してしまった。この閉校式に、芥川也寸志氏の奥様が列席されたという新聞記事を春先に読んだことを思い出す。

(つまり、芥川龍之介と私の縁はある、ということだな。)
だから今日、私はここにいるのかもしれない、この、しんとした文学館に。ほぼ貸切で。

何十年の時を経て今、ここの瞬間があると思ってしまうのは年をとったから。切れ切れの事実も、意外に繋がっているのだと思うことは悪くない。人が死んでも、その後の人たちの人生が続いていくように。

そしてもう一つ、芥川家との共通点があった。

芥川龍之介には3人の息子があった。そして、龍之介は35歳の時、幼い息子たちと28歳だった妻を残してあの世に旅立っている。同じく3人の息子がいる私は痛ましく思う。

自殺に至る前後の話がかなり詳しく、女中の手記なども交えて構成され、展示されているのを読む。「最初で最後のわがままを許してくれ」という趣旨のことを龍之介は書きのこしていた。

でも龍之介、ひどいよ、なんとかなんなかったのか。

妻の文は28歳で残されてその後、息子たちを立派に育てあげたんだな。展示パネルの写真の前で、先輩のために私は黙祷した。

「私たちの結婚生活は、わづか十年の短いものでしたが、その間私たちは、芥川を全く信頼して過ごすことができました。その信頼の念が、芥川亡きのちの月日を生きる私の支へになったのです。」(芥川文 「二十三年ののちに」昭和24年12月岩波書店)




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