保守は人間に正気をもたらす思想 (保守思想と左翼思想ー④)
人間には、どうやったら皆がそれなりに納得できる良い社会を作れるのか、その答えは、生まれながらに脳内にはプログラムされていない。ゆえに、長い時間をかけ何度も何度も試行錯誤し、一つ一つ英知を積みあげてきた。それを、伝統文化という。その伝統文化があるレベルにまでいくと、それは文明と呼ばれるものになる。日本の歴史を振りかえれば、たしかに時代が進むにつれて、あらゆる面で良くなってきてはいた。
この一つ一つ積みあげてきた英知を解体する作用をもっているのが、左派思想である(現代でいうリベラル)そしてそのための方便が、自由と平等という耳当たりこそいいが、どこかうさん臭い観念だ。この左派思想の影響により、日本の伝統文化の7割がたは崩壊した。そして今、いよいよこの国では、文明なるものも潰えようとしている。
ここ十数年の日本では、かつてはお目にかかったことがないような、狂気の人間がチラホラと出始めている。
路上で、いきなり一歳児の男の子を蹴飛ばす大学生の女。
アルバイトの女の子の鼻に無理やりピアスを通し、丸坊主にしてしまった弁当屋の女店主。
経営者の女が部下の男を蹴り殺し、あろうことかそれに執行猶予がつく。
中年の男女の教員たちが、後輩たちに性的なものをふくめた、虐待じみたイジメをする。
男たちが刃物を振りまわし、人々を傷つけるテロ事件が、月に一度おこっている。
数え上げればキリがない。あまりにもおぞましくて不気味な事件ばかりだ。ここまで狂った事件というのは、筆者の子供のころはそうは無かった。かつての日本では、狂気の振る舞いをする人間というのは、文字通り狂った人間だった。しかし今では、ふだんはきちんと仕事をしているような、いっけん正気の人間が、狂気の振る舞いをしだしている。
ここには、はっきりとした違いがみられる。正気と狂気の境目が、あやふやになってきているわけだ。かつて社会の外側に厳然として隔離されていた狂気が、社会の内側に入りこんできてしまっている。ここまで異常ではなくても、やはり崩れた人間というのは、確実に増えてきている。
弱い者いじめをする人間、卑怯な振る舞いをする人間、見ずしらずの人間なら傷つけてもかまわぬという人間は、本当に増えた。昨年の夏に「ホームレスより犬猫の方が大事」と言ってのけて大バッシングをうけたメンタリストのDaigo氏の存在は、日本人が醜いエゴイズムに憑りつかれつつあることを、象徴しているのだと思う。
もちろんかつての日本にも、こういう人間はいた。しかし数として明らかに増えたし、そしてかつてはこういうろくでもない人間にも、恥や罪の意識があった。彼らもまた、人として恥ずかしいことをしてしまったのだという思いに、苛まれてはいた。
しかし今のこういった連中には、この恥の意識が無い。まるで日常茶飯のことのように、平気で人を傷つける。そして、何事も無かったかのような涼しい顔をしているのだ。これにはなにか、不気味さすら感じる。
そしてこういうふるまいをする人間は、やはり女性に多い(もちろん男にもいる)それは女性に対し道徳律や美意識をもたす作用をもった、「女らしさの規範」が崩壊してしまったからだ。こうなると、殴られることもなければ逃げてもいい、責任をとらなくてもいいという所にいる女たちは、あっという間に堕落していく。
筆者は何ヵ国かの人たちと仕事をしたことがあるのだが、やはりろくでなしはろくでなし、卑怯者は卑怯者としてしか扱われていなかった。彼らは善と悪を、正気と狂気をごっちゃにするようなことはなく、厳しく峻別していた。彼らの持つ文化が、自然にそうさせていた。
日本は、何かが狂いつつある。かつての日本では、「悪い人間が、悪いと認識して、悪いことをしていた」しかし今の日本では、「普通の人間が、悪いと認識せずに、悪いことをしている」
認識が、狂いだしてきているわけだ。それは、日本人が3000年かけて作ってきた、人間を正気に導く規範が壊れてきているからだ。というより正気のプログラムの中に、狂気のプログラムが混在している。こうなると、正気の人間ですら、心の一部がどこか狂気に蝕まれるようになってしまう。ザワザワとした、得体のしれぬ苛立ちにつねに心が苦しめられているが、どうすることもできない・・・、こういう人間は、現代には多い。これは、心の一部が狂気に蝕まれてしまっているということで、おそらく半世紀前の人間には、今ほどはなかったことなのだ。
そしてならず者や卑怯者といった人間たちに対しては、歯止めそのものが無くなってしまい、どこまでも暴走している。規範の歪みは認識の狂いを生みだし、そして狂った認識からは、良心を失った人間が次々と生みだされていく。
考えてみれば、左翼に乗っとられた国で人々が狂気に憑りつかれるのは、あたり前のことなのだ。かつてはロシアでも中国でもカンボジアでも、人々は見事なまでに狂い、おそるべき残虐行為の嵐が吹き荒れていた。同じく左派勢力(リベラル)にのっとられた日本でも、いよいよ人々の認識が狂いだし、怖気が走るような振る舞いにおよぶ人々が出はじめているわけだ。
日本人は、中国人やカンボジア人たちかつて犯した過ちを、より陰湿な形で、周回遅れでくり返そうとしている。大陸の人間は野蛮で、島国の人間は陰湿である。その違いが、狂い方にも表れている。しかしこれは、左派勢力により伝統文化が崩され、人々が正気の規範を失ってしまった国で必ずおこることであり、原因じたいははっきりしている。
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人類の歴史上、いまの日本ほど自国の伝統文化を蔑ろにし、序列を否定し、平等を徹底させた国というのは、おそらくなかっただろう。かつての共産国家などはしょせんは面従腹背で、庶民たちは自分たちの伝統文化は、きちんと大切にしていたものだ。
現代の日本とは、ある意味ルソーの理想を体現した国である。しかし、ルソーの夢見た理想社会はやってこなかった。やってきたのは人々が正気を失い、「動物化した狂気の人々」が大手をふって歩く、狂気の社会でしかなかったのだ。
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「このままいったら日本は無くなって、その代わりに無機的で、空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るだろう」
有名すぎる三島由紀夫の予言だ。筆者の育った80年代は、たしかに今より明るく、活気に満ちていた。何より人々のあいだに連帯意識があったから、社会にはどこかほっとするような安心感が漂っていた。東京の都心のようなところでも、見知らぬ人同士でもさほど警戒せず、お互いに親切にしあっていた。大人の男たちも、朝起きたら張り切って仕事に出かけていくような感じだった。このどれもが、今では考えられないことだ。
しかし90年代半ばになると、なぜか社会は急速に活気を失い、どこかうつろで、病的な雰囲気が漂うようになった。まさにそれは、三島の言う空っぽな日本そのもののように、筆者には感じられた。なぜ20年後のことを正確に言い当てることができるのか?天才の持つ洞察力に、戦慄を覚えたものだ。
しかしさすがの天才三島も、虚ろな社会のその先に、狂気の社会が控えていることは予測できなかったようだ。これからの日本は、億を超える大民族が精神的に狂っていくという、かつて人類が経験したことの無い、まさしく前人未踏の領域に進んでいくことになる。
個人としての人間が精神的に狂う、ということは昔からよくあることだ。
ある民族が一時的に狂気に憑りつかれるということも、ままあった。
しかし、ある民族が精神そのものを長時間かけてじっくりと病んでいく、ということは、人類の歴史には存在したことが無い。
日本人はこれから、民族はどれだけ精神を病むことができるのかという、精神分析学者にとっては垂涎物の、しかしその国で生きる人々にとっては唾棄すべき状況を、生きることになる。
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保守思想と左派思想の違いが、なんとなくおわかりいただけたでしょうか?この2つの思想は、光と闇、まさに正反対のものである。
保守思想とは、人間に正気をもたらす思想である。
左派思想とは、人間を狂気に導く思想である。
保守的な社会とは、自由や平等を絶対原理とする社会ではない。しかし、人間が正気を保って生きることができる社会である。
対して左派的な社会とは、自由と平等を建前上だけでも目指す社会ではある。しかし、人間が狂気に苛まれながら生きる社会である。
どちらをお望みだろうか?
「自由で平等で、正気の社会がいい!」
そんなムシのいいことはあり得ない。そんな幼稚な幻想は、きっぱりと捨てていただきたい。「2つ良いこと、さて無いものよ」心理学者の故河合隼雄氏が、生前、この言葉が好きだとよく言っていた。たしかに含蓄のある言葉だ。
人間は、この上なく貴重なものを1つ手放してはじめて、1つの確かに価値あるものを、手に入れることができるのである。
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