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【備忘録 #05 (後)】入院記録 2023年

多発性骨髄腫を患った弟、2023年の入院記録です。
2022年の記録については前編をご覧ください。


2023年

1月12日 ~ 1月14日 (3日間)

IsaPd療法導入のための検査入院。
予定通り2泊3日で退院。

1月20日 ~ 2月2日 (13日間)

外来化学療法の予診で37.7℃の発熱あり。
時節柄、新型コロナ感染が疑われたため発熱外来へ。
コロナは陰性でしたが、CTの結果、肺炎の初見があるため急遽入院。
これまでの入院は血液内科病棟 (11階) でしたが、今回はベッド空きが無いので脳外科病棟 (8階、診察は呼吸器内科と血液内科) 。病棟ごとに食事・入浴等のルールが違うとのことでした。

ニューモシスチス肺炎 (カリニ肺炎) または 抗がん剤「サークリサ」による薬剤性肺炎 … おそらく後者が原因だろうとのこと。
入院中の抗がん剤治療は一旦中止。
CPR値が下がるのを待って退院。
今後も外来でIsaPd療法を続けていくことになりました。

この時の弟の心情は、このポストが全てでしょう。

4月11日 ~ 5月11日 (31日間)

外来でのIsaPd療法もあまり効果は出ず。
入院の上、再度VTD-PACE療法 → 二度目の自家移植となりました。
5月半ばに予定していた CAR-Tの細胞採取は中止。CAR-T療法自体も中止となりました (T細胞採取後、米国に送ってCAR-T細胞に加工するのに2か月以上と時間がかかるため)。

【4月19日】
初めて赤血球の輸血を受ける。

【4月20日】
次回差入れで持ってきてほしい品物リストの中に、なんとPS4の記載。病室内であまりにも暇なのでゲームをするとのこと。

【5月10日】
翌日の退院が決定。我が家のグループLINEに来た文面…
「明日は10時にお願いします。
 先生から説明があるので聞きたい人は誰でもok。」
父・兄で迎えに行くことに。

【5月11日】
退院。
主治医からの説明
「再発。
 昨年採取・冷凍保存の造血幹細胞で再度自家移植。
 その後に地固めになるが、使える抗がん剤は少ない。
 4つ目の染色体異常。」 

私自身、これまで漠然と抱いていた不安を「現実」として認識するのと同時に、弟の命がそれほど長く続かないであろうことを実感した瞬間でもありました。

5月15日 ~ 6月5日 (22日間)

VTD-PACE療法2クール目。

前回の入院後半から、血液の各数値を保つための輸血 (赤血球・血小板) が多くなりました。便秘気味、出ても痔になるなど……。
6月5日の午前中に輸血、午後に耳鼻咽喉科の検査を受けた後、退院。

6月12日 ~ 7月15日 (34日間)

二度目の自家移植のため入院。
今回は普通の個室でした。

移植前処置の抗がん剤は、悪性リンパ腫向けの強力なものになりました。

【6月20日】
二度目の自家移植、輸注。

【7月1日】
移植から12日目。
白血球値が前日1,500、本日2,870なので生着しただろうとの判断。
この間、弟はほとんど呟いていません。
二度目の移植でも下痢の症状に苦しめられたようです。
また急激な白血球値上昇のため、高熱も出ていました。

【7月4日】
移植から15日。
久しぶりのポスト (当時の世界情勢からのネタ)。
顔を隠さずにポストしたことも、今考えると「覚悟」の表れではないかと思います。

この頃に下痢は治まりましたが、高熱が続いたために家族への返信も遅くなりがちに。本人曰く「THE無気力」。

【7月8日】
移植から19日目。
感染症の隔離が終わり、院内コンビニまで行けるようになる。
病院食がなかなか食べられない中、コンビニのサンドイッチと飲むヨーグルトが日常食に。

【7月14日】
翌日退院の連絡。
本来は「ちゃんと食事ができるようになってから退院」なのですが、弟の場合病院食が全く食べられなくなっていたので、自宅の方が良いでしょうとの主治医の判断。
退院日の夕食のリクエストは「かつとじ」(かつ丼の具) でした。

【7月15日】
退院、34日間。

ー 退院後 ー
【7月17日】
自宅で47歳の誕生日を迎える。
【7月25日】
退院後の初外来。血液検査。
【8月1日】
外来。血液検査。
【8月9日】
この日から地固め、外来でDKd療法。
夜、自宅で2回嘔吐 (病気発覚以来、自宅での嘔吐は初めてのこと)。

8月10日 ~ 8月21日 (12日間)

前日夜に嘔吐したこと、診察時に微熱があることから追加の検査と医師の診察。急遽入院となりました。

入院してすぐに腎機能は正常に。
輸血 (赤血球・血小板) と引き続きDKd療法の観察。
8月11、17、18日に抗がん剤投与。

【8月19日】
週明け月曜日 (21日) の午後、退院の連絡。
その際にやり取りした我が家のグループLINEの画面です。

(名前だけマスクしました)

【8月21日】
退院。
主治医からの説明
「今のところDKd療法は効いている。
 が、これが効かなくなった後に使える抗がん剤はもう無い。
 新薬・新療法も期待薄 (間に合わない)。」 

ー 退院後 ー
【8月23日】
外来化学療法。
行きの車中で終末期の希望を尋ねる。
車窓を眺めながらこちらを向かず、涙声でただ一言「家に居たい」。
【8月24日】
外来化学療法と輸血。
【8月30日】
外来化学療法と輸血。
この日が最後の化学療法となりました。
病院帰りに若洲海浜公園へ。

【9月6日】
外来、DKd療法2クール目のため病院へ。
採血・検査の結果、抗がん剤が効いていないことが判明。
主治医から「早急に、自宅から近い病院で輸血を受けられるよう手配してください」とのこと。
この日は輸血のみ。
【9月7日】
初期診断を受けた "昭和大学 横浜市北部病院" へ。
今後の輸血や緩和ケア、自宅療養の手続き。
手続き終了後、弟の希望で病院~自宅とは反対方向の「油そば」屋で遅めの昼食。

【9月8日】
輸血の予約があったのと、転院手配が済んだことの報告のため "日本赤十字社 医療センター" へ最後の通院。
この日は台風接近で大雨でした。
輸血終了後、地元のショッピングモールに寄り道して帰宅しました。

【以降】
これ以降、輸血は "昭和大学 横浜市北部病院" 、日常の痛みのコントロール等は在宅医での診療となり、11月末まで自宅で余生を過ごすことになりました。

まとめ

2023年の入院日数は合計「115日」でした。
この年8月末までの半分は病室にいたことになります。
弟が最期を過ごす場所に「自宅」を希望したのも、当然のことなのかなと思います。


なるべく感情を排し、弟のポストやLINEのやり取りから事実だけを取り出して記しました。
弟 "じぃの🍋🍒 @TheBow_Z" のXアカウントは、凍結などされない限りずっと残しておきます。詳しいデータを残している訳ではありませんが、闘病中の面白かった話や自宅療養になった後の話など……少しでも他の患者さんの参考になってくれればとの思いです。

弟を亡くしてもうすぐ7か月。
「今頃このような記録を記して、何の意味があるのか」
と思うこともあります。
弟が治療中に診療データを預かり資料として記録することができたはずなのに、この2年間なにを呆けていたのかと後悔しています。
自分自身の反省のため「入院記録」としてこの記事を公開しました。

2023年9月25日
病室の窓から連日眺めていた東京タワーへ……

🤓最後までお読みいただき、ありがとうございました😇

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