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頭がいいってなに【エッセイ】

先日、Vtuberの家長むぎさんが「このコーヒーが冷めるまで」というラジオ配信を見た。ゲストは剣持刀也さん。

ここで、「頭がいい」とはどういうことかということが話題に上がった。

過去にも家長むぎさんは「頭がいい」について語った配信をしていたらしい。

家長むぎさんは、相手が考える「頭がいい」とは何かを知ることで、その相手が何を尊敬し、何を好み、何を拒み、どう生きたいかが知れるため、この話題が好きだと語っている。

家長むぎさんが思う「頭がいい」は、「人に合わせた話ができること」だという。相手の知識のレベルや物事の理解度に合わせて、語る内容、言葉遣い、話す順序を変化させなければいけないため、自分が理解するに足る知識量よりも多くの知識量が求められるから、と言った。(意訳です。)

また、先日このような本を見つけた。

脳科学者が「頭がいい」について語った本だ。読んではいないが、(積読を消化したらいつか絶対買って読むため、)読む前に自分なりの「頭がいい」についての定義を固めようと思う。自分がどういう人間なのかを定義する試みだ。


私が思う「頭がいい」とは「面白いことができる」「面白いことがわかる」人だ。

面白いとは、自分の想定外の事象が起きた時に起こる感情だと考える。「そうはならんやろ」とツッコミたくなる現象や、「そんなこと起きるんだ」とビックリするような現象に対して起きる感情だ。

面白いという感情が起こるものの例として「漫才」を挙げてみる。ボケとツッコミに分かれて会話を繰り広げて観客を笑わせる芸だ。

ボケの役割は、想定外の事象の提示だと考える。まさに「そうはならんやろ」と思わせる言動を繰り広げることだ。
想像するに、ボケに対して何故笑いが起きるかというと、「ありえない現象」だからだ。自分が想像できないような言動を見聞きした時、その想像力の許容量を超えた時に人は堪えられずに笑うのだと思う。

命の危機というのは知識や経験、想像の外からやってくる。包丁、高所、水中、火など、それらに対する知識や経験、想像が足りない場合に命の危機がやってくるのだ。

想定外の事象を多く見聞きすることは、自分の想像できる物事の範囲を広げることに他ならない。想像力の広がりに対する興奮や幸福により、人は笑うと考える。

では、漫才の例えのままツッコミに対しても考察してみる。ツッコミの役割は、ボケが提示した想定外の事象に対して正しい解答を示すことだと考える。

想定外の事態という不安を、想定内に収めることで安心へと変えるのだ。また、観客が思う解答をツッコミが代弁してくれることに安心を覚えるとも思う。私でもツッコミと同じ解答を示すので私は普通なんだという安心。

このように、自分の提出する解答をツッコミが肯定するという事で、ようやく「面白い事がわかる」状態になると考える。問題に対して回答して、先生が花丸をくれるような感覚だ。

さて、漫才を例に面白いというものを考察したが、漫才というのは会話をベースに作品にしたものであり、今挙げた例は日常会話でも起こりうることである。友だちが面白いことを言ったらツッコミを入れるのは楽しい会話のパターンの一つだろう。

知識や経験を知恵や想像に昇華させる事が頭がいいと言ってもいいと思うが、以上の考察より、想像力を発展させるために必要なのが「面白さ」であると考える。

よって、私が考える頭のいい人は「面白い事ができる」「面白い事がわかる」人だ。


冒頭で、家長むぎさんはその人が言う頭のいい人とは何かを知ることはその人がどんな人かを知る事ができると書いたが、私は面白い事が好きで、面白い事ができる人を尊敬して、面白い事がしたいと考える人間だ、と言うことになる。

堅苦しい文章を書く人間だけどできるだけ面白いことを見聞きして面白いことを書けたらいいなと思いながら沢山本を読んで沢山記事を書きたいですねー。

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