お葬式
親父がまだ生きていて、弱っていた頃、僕は安全に風呂に入れるように風呂の中の椅子や手摺を取り付けた。階段にも手摺をつけた。だがあまり使うことなく、庭いじりをしていたら、背骨が折れて、急遽入院することになった。骨が脆くなっていた。
すぐ見舞いに行くと、わりと元気であった。僕が持っている携帯電話をさも子供が欲しがるようにして見た。母に後日ねだって買ってもらったようだが、使うことは、母と連絡をとりあうくらいであった。
時々、麦茶のようなものを吐いていたが、それは血だった。吐血がすごかった。
そうめんが食べたいと、母にねだって母はどうしたらいいか困っていたようだったが、作った後、水気を取って病院で水を入れれば、のびることなくおいしく食べられることを教えると、そうしようといって作って、差し出したら、親父は大喜びだったらしい。それが最後の食事になった。
僕が見舞いに行ってから、一か月ほどで、逝ってしまった。B型かC型か忘れたが、肝臓が悪くて、最期は肝硬変で亡くなった。享年69歳。4月下旬のことだった。
高度成長期のど真ん中で、仕事ばかりの印象で、あまり遊んだとかの印象はないけれど、晩年は母親と2人でヨーロッパを中心に外国を巡っていたようだ。
葬式は葬式屋が進めるがままに進行し、僕は喪主として挨拶等を行った。
お通夜では軽く、本番では長く親父について喋った。そして参列された皆さんへお礼の言葉を告げ、遺体は火葬場へと行く。
まだ小学校低学年だった息子が泣いて訴えた。「なんでおじいちゃんを焼いてしまうの。焼いたら駄目だ」
その言葉に今まで張りつめていたものが溶け、涙がつたって鼻声になりながら「そういう決まりになっているんだよ」と答えた。
もっとましな言葉が思いつけばよかったのだろうが、そういうのが精一杯だった。
骨になった親父は綺麗なガイコツ姿で現れた。普通こういう場合、ボロボロになって出てくる場合が多いが、親父はきれいなしゃれこうべであった。そのまま壺に入るものなら入れたいくらい。それを火葬場の人が無遠慮に火ばさみで崩した。
僕たちはそれぞれ箸でお骨を壺に入れていった。全ては入らないから散骨されるのだろう。
お骨を持って帰り、その日のうちに初七日もすませた。
すぐゴールデンウイークになったので、息子と妻はそのまま実家に残ってくれた。僕と娘は帰った。仕事とクラブ活動があるからだ。
あれから20年近く経つ。母はその間ずっと独り暮らしであった。母は来年88歳になる。米寿のお祝いをしなければならないが、おそらく嫌がるだろう。そういうお祝いをすると早死にするといっていたから。だから今まで還暦も古稀も喜寿もお祝いしたことはない。どうするかは妹と決めよう。