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おはこんばんにちは!
治療家のMakotoです。
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私は理学療法士とトレーナーをしています。
私のミッションは、怪我や心身の病気などで困っていて、やりたいことができなかったり生活が大変になっている、なるべく”たくさんの人々を救う”ことが目標です。
将来的には、そういう人たちを集めた会社・施設を作ります。
出身〜高校時代
私は、新潟県新潟市という自然が豊かな地域に生まれました。
小中高は、野球漬けの毎日で、終わったら友達と遊んだり、いたずらしたりと周りの仲間には恵まれていました。
高校野球を行なっていたのですが、高校3年時に膝の怪我によりチームを離脱しましたが、半年間のリハビリで無事に復帰して、スタメンに返り咲きしました。
これがきっかけで理学療法士に憧れるようになりました。
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大学時代
両親が厳しかったこともあり、「1秒でも早く実家を離れたいw」と思っていいたため、親元を離れ、群馬県にあるFラン大学へ入学しました。
この時は、親のありがたみは1mmもわかっていない親不孝者ですw
大学生活は一言で、たくさんの良縁に恵まれ、自由なことができた4年間でした(親には頭があがりません。)
・北海道・日本列島バイク縦断
・海外旅行
・サークル活動(バスケ・野球)
・朝方まで友人とお酒を飲む。
・クラブでテキーラ乾杯w
王道の学生生活だったのかもしれません。
遊んでばかりではなく、アルバイトもしっかり。
月収はアルバイトで15万程度稼いでいた時もありましたww(居酒屋とラーメン屋)
ここまでバイトを頑張れたのは、働いていて楽しいと思えたからです。
思い返すといつも周りの仲間には恵まれています。
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理学療法士になるための専門性が強い大学だったため、勉強もかなり行いました。(生まれて初めて、自ら勉強しましたww)
2ー3年次は、病院や施設での実習があり、コテンパに叩きのめされました。
その頃の私は、実習なんて、指導者と患者さんにハキハキして、レポートさえ出せば余裕だろうと舐め腐っていたからですww
現実はそう甘くなく、、、
初めて行った”〇〇循環器病院”では、指導者に何度も怒鳴られ、20枚書いたレポートは目の前で投げられ、「もう添削しません」と言われました‥
”もう理学療法士になりたくない”と初めて親に泣きながら電話したのを覚えています。笑
全部自分が悪かったのですが‥笑
そんなこんなで実習を3・4回Passして、ついに4年生。
大学4年生
国家試験があったため、4年次は、朝は5時半から駅のマックへ行き、8時から大学へ、大学が閉まると毎日0時までJoyfulやガストへ行きました。
とにかく解剖学の暗記量がおおかったため、楽しみながら勉強した記憶があります。
努力も実り、無事に高得点で国試はPassできました!!(216点だったかな?)
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社会人1年生(内部障害チーム編)
私は、理学療法士にはなりましたが、具体的な”こういうセラピストになりたい”という像はなかったため、色々学ぶことができる上尾中央総合病院という大きな総合病院に入職しました。
ハッキリ言って、この選択が自分の人生を大きく変えた、"Good choice"だったのかもしれません。
この病院は、緩和期という、”末期癌で死を待つ”という状態の患者さんから、プロスポーツ選手の方まで、様々な疾患を経験することができました。
1年目に配属されたのは、内部疾患チームでした。
内部疾患とは、主に”内臓系”の体の見えない部分の総称のようなもので、
主には、呼吸器内科・消化器外科・心臓外科・循環器・ICU(重症病床)でした。
鮮明に覚えているのは、入職2週間目の出来事でした。
病棟の廊下で、先輩のリハビリの見学についていました。
80代の呼吸器の疾患で入院している方の歩行練習中です‥
元気に世間話をしながら歩行練習していると突然、ガクッと膝折れ(膝がついてしまう)してしまい、その場で床に倒れてしまいました。
そこからJCSⅢ-200(目を開かずに痛み刺激で表情が変わる程度)となり、先輩は大声で周りに応援を頼み、CPR(心臓マッサージ)が始まりました。
院内にはコードブルー(ドラマでよくある院内放送)のアナウンスが入り、医者と看護師が全力で走ってきました。
この時は、私はめっちゃ怖かったです。何もできず呆然と見ていることしかできませんでした。同時に自分の無力差を痛感しました。
その方は、ICUに転棟しましたが、最終的に亡くなってしまいました。
これが私が、さらに勉強しようと思ったきっかけだったのかもしれません。
もう一つ、鮮明に覚えているエピソードを紹介させてください。
入職半年後、私は生理学をガリ勉したことにより、新人ではなかなか入れないICU(集中治療室)のリハビリを多く担当させてもらいました。
ICUは、文字通り”集中的にケア”が必要な人を意味します。
また、ICUのリハビリを行なっている病院は、この当時は多くなかったです。
ここで、担当させてもらった80代の膵臓癌の術後の方のお話です。
膵臓癌は、5年生存率がかなり低くて有名な癌ですが、進行していたため、
開腹膵頭十二指腸切除術という12時間を超えるような大手術を行いました。
予後は順調かと思いきや‥膵液漏という合併症、されらには誤嚥性肺炎にもなってしまい、退院はおろか生死を彷徨う状態となってしまいました‥
この方は、術前からリハビリで携わっており、お孫さんのお話や自身の今までの人生などを楽しくお話しながらリハビリを行い、私のおじさんんのような存在でした。
ICUでは、人工呼吸器や人工心肺装置などがついている状態で、リハビリをおこないましたが、最終的には帰らぬ人となってしまいました。
これを機に、集中治療領域で、リハビリをやりたいという思いが強く、自分みたいなポンコツでも、勉強することでたくさんの人を救えるんだと証明できる人間になりたいと思うようになりました。
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社会人2年目(整形外科チーム編)
社会人2年目は、整形疾患に配属されました。
私の理学療法士になりたいきっかけをくれた”整形外科”だっただけに気合い入りまくりでした。
しかし、現実はそう甘くなく、先輩たちの技術・知識の豊富さに自分への劣等感が募りました。
整形外科では、外来から手術後の方、肩が痛い”いわゆる五十肩”(軽傷)の方から骨の変形が強すぎてどうにもできないような(重症)方までたくさんの方を経験しました。
発表や学会の参加など外部へ興味を持ち始めたのもこの頃からです。
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社会人3年目(中枢疾患・神経チーム編)
中枢疾患は脳卒中や硬膜外血腫・神経難病の方などを担当しました。
私の苦手な脳神経をしっかり勉強できたのは、このチームのおかげです。
また、苦手な分野で、人に頼るということも覚えたのはこの頃からかもしれません。
今では、このチームに所属していたおかげで、トレーニング指導において”意識下””無意識下”などの神経系を意識できていると感じています。
また、この時に、ボディーメイクのフィジークという大会に出場しました。
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社会人4・5年目(整形外科チーム編)
4年目からの配属先は希望が通り、無事に整形外科チームへ配属されました。
ここからは、今のクリニカルリーズニング(臨床の考え)やトレーニング指導の際の考えのベースになっていることを学ぶことができました。
病院では、1日に救える方に限界がある。
また、夢であるインドへ行きたいという思いのもと、
このまま病院にいてもこれ以上の人間的な成長はないと思い、退職を決意しました。
社会人6年目(海外留学・整形外科クリニック)
インドへ行くためにはまずは英語の勉強をしなければいけない。
そのため半年間の語学留学先にフィジーを選びました。
ここでは、なんとか日常英会話レベルまでは到達しました。
まだまだ、へっぽこですが‥
帰国後は、整形外科クリニックで臨床に復帰しました。
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社会人7・8年目(プロトレーナーとしてのスタート)
そして、次の留学先を探そうとしていたところ、先輩からの紹介で「東京でジムをオープンするのにスタッフを募集しているので紹介したい」というお声かけがありFunction自由が丘でトレーナーとして2年間働きました。
(元々、ジムをやりたいという目標があったため決意しました。)
ここでは、ある大企業との健康経営事業に携わったり、店舗オープニングスタッフとして、施設の運営・広報・営業・仕組み作りなど、様々な業務を経験することができました。
病院にいた時とは違い一般職(言われたことだけやる)→総合職(成果を求められる)に変わった瞬間でした。
がむしゃらに仕事をしまくりました。
トレーナーとして目標にしていた、プロチームのトレーナー(女子プロバスケットボール ストレングスコーチ)も経験することができました。
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2年間、がむしゃらに仕事をしていたところ、様々な要因で、自分自身に歯止めが効かなくなり、2年間休みなしで仕事と夢をおっていたところ心身が壊れていました、、、
2024/10/16にうつ病の診断となり、今の職場を離れることとしました。
また別の記事を書こうと思います。
そんなこんなで長々と記載しましたが、
これからたくさんの人を救うため、日本を元気に、インドを元気に、世界を元気にするために尽力していきます。
私のストーリーはまだまだ終わりません!