ryuchellとpecoの「離婚」だけど「家族」という選択はジェンダー自認に関わらず起こりうる|「夫/妻/父/母とはこうでなければならない」という #呪いを解く冒険
セクシャリティを100%女と自認していても
妻らしく、母らしく、というのはつらい
というか嫌だ
夫婦仲が睦まじいと思っていたryuchellさんとpecoさんの「離婚」するけど「家族」ではあり続けるという発表。一見、LGBT的な問題なのかな、と思ったけれど、無意識に共有する家父長制に起因しているなぁ、と見受けました。
「“夫”であることは正真正銘の“男”でないといけない(中略)
“夫”であることには、つらさを感じてしまうようになりました」
とあるけれど、
わたしは女であるけれど、結婚1周目では“妻”や“母”であることにしんどさを感じていました。だって、時代も変化していて、暮らし方も働き方も変化しているのに、未だに家父長制の元に割り当てられた役割を求められている(もしくは求められていると自分が思ってしまう)から。
そもそも家父長制とは家族の統率権が家父長(男性の年長者)に集中している家族の形態。
家父長制や亭主関白なんて時代遅れだと思っている一方で、夫/妻/父/母の肩書きに、役割を固定しがちだなぁ、と感じています。そんなわけで、今回は「苦しくない結婚」について、考えを棚卸ししてみようと思います。
「夫/妻/父/母」という固定観念やバイアスに
自覚的でいることを心がける
「対等を求めるわたし」と「養われたいわたし」が共存している面倒臭さをはっきりと認知したのは、結婚2周目の初めの頃。産後、馬車馬のように働かなければならなかった結婚1周目の反動から、養われてみる(生活費をオットが全部払う)ことを選んだが、それはそれでしっくりこない。
養われるということと引き換えに「家族のために」と家事的な自己犠牲を払わなければ、というマインドが自分の中から湧き出したことにも驚いた。養われるのは「女のしあわせ」みたいな価値観も、自分の中にないといえば嘘になる。裏を返せば、夫/父は、養う人であり、家族のために仕事で自己犠牲を払う人、という刷り込みがわたしにはあったのです。
とにかく、結婚とお金にまつわる無意識は、ふとした瞬間に目の前に現れるのです。だからこそ、自分の結婚生活の中で、違和感を感じるたび、固定観念を疑うようになりました。
結婚しても
わたしはわたしのままで
君は君のままなだけだった
ヤフトピをさらっと読んだだけだけど、ryuchellが無責任で、pecoがかわいそう、という論調がとても多い。これは、男性は責任持って家族を養う、女性は養われるという「家父長制」の固定観念だよなぁ、と。そして、呪いに違和感なく順応している人がこんなにもいるのかと遠い目になる。
「一緒に住み続けるのに、子どももいるのに、離婚するなんて非効率だ」、という論点も多かった。だけど、法律婚と彼氏彼女としてのお付き合いを比べると、大きな違いは、自分たちだけでなく親類含め「こうあるべき」の引力がとても小さいことにあると思う。「結婚」「夫/妻/父/母」という状態は、自分の中から、親から、世間から、実にたくさんの圧力を生み出すのです。
そういう、重圧と思う肩書きと距離を置いて、彼らが彼らとして存在したい、というのは、そんなに理解に苦しいことではないと思ったのだけれども、世間ではそうではないんだな、ということを今回認識しました。
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