見出し画像

いつもそこに手があった

 昨日ふと色々考えていた。
 私の人生波乱万丈だなぁと。
 でもよく考えると、波乱万丈って主観だし、多くの人が色々経験しながら生きているんだよなって思った。 
 それでね、私がどん底にいるとき必ず誰かが、手を差し伸べてくれていたことに、改めて気づいたんだ。
 嫌なこといっぱいあった。人の冷酷さ、醜さたくさん見てきた。
 その代わり、人の優しさ、温かさもたくさん見て感じられた。

 幸せなのに、希死念慮などがわく自分がイヤで、矛盾している自分が許せなかったんだ。
 でも幸せって、辛さの中にあるのかなって思ったりもするんだ。
 砂漠にあるオアシスのように。
 私の場合、幸せを知っているから、辛さもわかるんだと思う。
 私はその幸せに気が付いて、手を伸ばしたこともある。
 でも気づかなかった幸せもあったなって、もったいないことしたなって思う。

 今こうしてポジティブだけれど、またネガティブになることも知っている。
 「もうしょうがない!」
と、自分に言い聞かせるしかない。
 私はどこかで、自分の障害について否定してた。本当は障害なんてなくて、ただの性格で、甘えなんじゃないかって。
 けれど、先週と今週の考え方もテンションも、真逆でなんであんなにネガティブだったんだろうって、不思議でたまらない。
 それが今の私の生きる世界なら、受け止めるしかないよね。
 ポジティブな自分もネガティブにな自分も丸ごと抱きしめてあげたい。
 色々な人に助けられてここまで来たけれど、最終的に自分のことを幸せにできるのは、自分だけ。自分次第。
 自分の幸せを発見できるのは、自分の感性だけだよなって、思う。
 
 今2人の人がいて、同じことがふりかっかたとしても感じ方は、違うはず。
 どんな逆境でも、自分の意志次第で幸せになれるし、なる権利は等しくある。
 鬱の時見逃すことが多いけれど、幸せってあちこちに転がってる。
 ちょっと見にくいから、「幸」と読む人もいるし「辛」と読む人もいるかもしれない。漢字が似すぎてるから、こんがらがる。
 
 自分が生きてきて、覚えている範囲の記憶をたどると、必ず味方がいた。助けてくれる人がいた。支えてくれている人がいた。
 
 改めて私は、自分だけで創られているのではなく、様々な人の思いだとか気持ちだとかで、構成されていることに気が付く。苦しかった記憶でさえ、私の一部。それを随所随所で、良い記憶も一緒にくれた人たちがいる。
 障害も含めて私。周りを巻き込むことも未だにある。
 
 あれがなければ、これがなければ障害者にならなかったと、思うことも多少はある。
 でも今この障害があるから、知り合った人、感じられることがある。
 ずっとこの考えを保持できればいのだけれど、鬱はそれを許してくれないんだよね。鬱とも友だちになれたら、楽になるかしら。

 自分の人生を無駄にしたくないなって思うんだ。
 生かしてくれた人たちがいるから。
 この先も障害と向き合っていかなければならない。
 それでも、一日一日を大切に生きていきたい。

 とりあえず今は、差し伸ばしてくれた手に気付ける人になりたい。
 そのことに気付くか、気付かないかで私のこれからは大きく変わるって心底思っている。
 ひっぱたいたり、ひっかいたりすることもしない。
 
 これまで関わってきてくれた人のおかげで、私は今精一杯いきています。

 全ての出逢いに感謝します。

いいなと思ったら応援しよう!