『華厳経』睡魔・雑念 格闘中28
「十地品」― 現前地:三界唯心か、空か、それとも ―
1巡目にこの『華厳経』読んだときは、無手勝流であったため、まったく気が付かなかったが、この第六地である現前地の”三界唯心:三界虚妄但是(一)心作”の部分を巡って、色々な先生が、それぞれの視点で、『華厳経』に於いての重要事項と考えていらっしゃるようである。
三界とは、この世界を、欲界(欲望に縛られた処)・色界(欲望は脱しているものの、物質の縛りが残っている処)・無色界(物質の縛りも脱した精神的な処)の3つに分けたものであるが、ここでは、”世界は”、”世の中は”という大きなまとめ方で良いであろう。その世の中は、心によって作られている(唯心)ということを言っているのである。
少ない手元の資料から、4名の先生の”三界唯心”に関しての記載を、当方にてまとめてみると、以下のようになる。(注:並び順は、当方の読了順。)
中村元先生 ・・・三界唯心は、『華厳経』にとっては、かならずしも
中心思想とは言えないが、後代の唯心との連関におい
て重要 (『中村元選集〔決定版〕第21巻 大乗仏教
の思想 大乗仏教Ⅱ』,春秋社,1978,p.817)
木村清孝先生 ・・・三界唯心を巡る、心と虚妄性の解釈や議論は、「十地
品」にも『華厳経』にも、ひいては仏教そのものの考
え方にも背く (『華厳経入門』,KADOKAWA 角川
ソフィア文庫,2015,p.178)
玉城康四郎先生・・・三界唯心ということが、迷っているのはただ、心の
我執のためという部分に於いて、十地における、重大
な峠 (『スタディーズ 華厳』,春秋社,2018,p.105)
鎌田茂雄先生 ・・・第六地の現前地で、三界は唯心であるという『華厳
経』の確信がつかめる (『華厳の思想』,講談社学術
文庫,1988,p.63)
これだけ、先生方が話題にしている関わらず、1巡目も、2巡目を読んだ今でも、私自身は、この”三界唯心”は、残念ながら、まったく引っかからなかった。というのも、この表現に当てはまる直接的に表現されている和訳の”三界唯心”部分は、1ヶ所のみで、気が付かなかったというのが、正直なところだ。
ところで、現前地のこの部分で、いちばん文章量が多いのが、”縁起(十二縁起)”についてであり、そのため、かなり印象に残るのである。文章量の多さが必ずしも、重要さを示す訳ではないが、しかし、それほど重ねて説かれるには、その理由がある筈である。
特に、金剛蔵菩薩の偈の最後の言葉が気になった。
まるで、大乗の特徴となる部分によって、声聞乗の方々には、その違いから、第六地は理解されないと言っているようにも思える。
ここで、中村元先生の大乗仏教と、初期の仏教の違いについて述べられている部分を読み返してみると、縁起に関して次のような言葉が見つかった。
これらのことからすると、この第六地である現前地においては、時間的な関係性の縁起では無く、別な特徴としての縁起(十二縁起)の部分が、強調されているようにも思える。
では、この“現前地”での縁起についての特徴は、なんであろうか。それは以下に示されているのではないかと思う。
十二縁起に於ける、逆順とは、結果から遡って行って、つまるところ、原因を取り除くことにより、結果が滅するという仕組みを観ずることであるが、この仕組みを観ずることで、空へと導くということであろう。
三界唯心にフォーカスされてはいるが、漢文では、以下のように訳されており、後半部分では、十二縁起とそれが依るところの心についても、併せて説かれているのである。
三界虚妄但是(一)心作十二縁分是皆心依
そのためには、この”現前地”で示されている、起点、すなわち始まりとしての、心(貪心、我に貪著(とんじゃく)する心、欲心を何とかしなさいと、この第六地である”現前地”に於いては説かれているように思えるのである。