普通に幸せになるのは難しいらしい。困ったものだ。
10歳のあの日。体育館までの短い渡り廊下は、今の何倍も長かった。
「僕は科学者になって皆を助けたいです」
土曜日の体育館には、自分の両親や友達の親も来ていた。
科学者になりたい、サッカー選手になりたい、壇上に上がっては一人、また一人とクラスメイトが将来の夢を発表した。20歳が成人なので10歳のそのイベントは1/2成人式というものだ。親からすれば自分の子供の成長を感じられる楽しいイベントだが、人前で話すのが嫌いな私にとっては嫌がらせのように感じられた。私は台本どおり「科学者になりたいと」発表すると、逃げるようにそそくさと自席に帰っていった。
実際のところ、「科学者になりたい」だなんて嘘だった。たかが10歳といえど、自分の発言が周りにどう取られるかくらいは理解している。クラスメイトの大半もそうだろう。
恥じらいや周りに馬鹿にされる怖さを理解しているから、周囲にあわせて『それらしい』発表をしたに過ぎなかった。
それでも全てが嘘ではなかった。「みんなが幸せならいいのにな」とは思っていた。私はTVで医療の発達や科学で人々が幸せになる様を見ていたので科学者になりたいと発表した。
ただ、科学者にはなれなくても流されるまま生きていれば普通に働いて、普通に人のためになって、普通にみんなで幸せな人生を歩めるんじゃないかとは思っていた。
この普通がどれほど困難であるか、小学生の私には想像もつかなかった。
科学者になることはなかった
大人になり、私はショッピングセンターのテナントの1つで働いた。
おおくの学生は社会人になると理想や想像とのギャップで苦しむという。
私の会社でも例外なくその光景が見受けられた。私の会社は比較的大きかったので30人ほど新入社員の同期がいた。しかし半年で5人、1年で12~3人ほど消えていった。
もちろん私も例外なく学生と社会のギャップで苦しんだ。なにより大人には自由がない。雇われのサラリーマンともなると顕著だった。
私が辞めなかったのは日記を書く習慣があったからだろう。
毎日ではなく、心の底から感情が動いた時書くようにしている。
しんどかった時、むしゃくしゃした時、楽しかった時、悲しかった時。
私はダイソーで買ってきた紙とペンを握り、無心で書いていた。
私が日記を書き始めたのは大学2年生の頃だ。私は通学や通勤時にラジオを聴いている。その時たまたま「日記は良いよ」とパーソナリティが言っていた。普段だったら日記だなんて面倒なことしないが、その頃は将来について何も出来ない焦燥感があったので藁にもすがる思いだったのだろう。
「大学まで卒業しなさい!」親に言われるまま勉強したが、私は頭が悪かったので高校時代はほぼ学年最下位だった。「あぁ、将来はダメだろうな」と思われただろうし私も思っていた。それでも奇跡的に有名どころのFラン大学に入学でき、通わせていただいた。
そんな学力だから、最初の日記はびっくりするほど何も書けなかった。
日記がこれほど難しいと思わなかった。
私はこの数行に40分くらいかかった。ほんとに。
(ちなみに筋トレは続かなかった。3回に一回風邪ひくので無理でした。)
日記の良いところは、自分が何を思っているか知れるところだ。
社会人で苦しんでいた時、日記に言葉を書き連ねることで会社が嫌なのか、環境が嫌なのか、自分が嫌なのか、明確に心の声を知ることができた。
だから私の場合は、新卒魔の1~3年目を乗り越えることができた。
大人になり人と関わる
「なんですか!わざわざ来たのにそんな事言わなくていいじゃないですか」
「いや、○○さんが悪いのではなくて早めに連絡もらえるか無理だったら欠勤でもよいので…」
「どうせ○○が文句いってたんでしょ!家族の方が大切だし病院の待ち時間なんて分からないじゃないですか!」
「それはそうなんですが、あの、なんというか…」
Rさんとういう女性のパートさんは外国出身の方だった。少々陽気すぎるところがあり「○○さーん、I love youー!」と結婚しているにも関わらず絶妙なギャグをかました。
ただ、外国出身だが仕事に対する姿勢は日本人よりも日本人らしかった。
問題点はとにかく数分遅刻をするのと家族が体調を崩すと早退や欠勤をする点だ。
日本人は家族を捨てて、仕事に没頭するタイプが多いが彼女は家族が第一で次に仕事なのだろう。そこの辺りは外国仕込みの価値観かもしれない。(最近の若者は仕事よりもプライベートが重視するようになってきた、時代の流れか。)
その欠点を補うほどRさんはとても良く働いた。少々若い(30後半くらい?)こともありパワフルで作業速度も早かった。人手が足りない時も無理して出勤してしてくれた。Rさんは働きすぎで疲労骨折に近い状態になることもあった。
私はRさんが人として好きだったし、社員目線でも遅刻なんて気にならないほどの優秀さがあった。
しかし、他の従業員もそう思っているわけではない。
「いいかげん○○さんなんとかしなさいよ」
「みんな遅刻や欠勤して良いと思うわよ、困るのはまわりなんだから」
他の従業員の意見はごもっともだった。しかしMさんが家族のために遅刻していることは予測できた。
私が「あとで注意しますので…」となだめると、○○さんは優しすぎるのよルールはルールなんだから。と苦笑いされた。
そして店がかわる
3年が過ぎると私の仕事が評価され、ありがたいことに昇進とともに別の店舗に移ることになった。(私の本音は仕事量が莫大に増えることが分かっていたので嫌だった)
この頃の私はなんとかパートさん(あとバイト)が働きやすい場所を作れないか試行錯誤していた。なまじ資本論などに触れたせいもあっただろう。
最低賃金ちかくで一生懸命働かせているのが申し訳なかった。
今思うと、この考えは未熟だしパートさんを人間として尊重していたか怪しいところでもあった。犬がかわいそう、熊がかわいそう、といったエゴに近かったかもしれない。
役職があがり、予測どおり私の仕事量は莫大に増えた。そんな中でも作業改善につとめ、パートさんの意見を聞いて対策をたてた。
しかし、不思議な物でいくら努力しても良くならないのだ。作業改善するとなぜか仕事が増える。仕組みをかえると嫌がる人と喜ぶ人に分断される。人を増やすとサボる人がでる。上手くいったと思ったら上司に否定される。改善よりもサビ残を選ぶ人がいる。定時あがりを求められたが定時であがると疎まれる。
前の店で、人それぞれ価値観が違うことは理解していたが「ここまで顕著にでるか」私は自分の実力不足にうなだれることしかできなかった。
私は本当の意味で、自分の努力でどうにもできない事を理解した。
そしてお世話になった会社を辞めることにした。
子供の頃、想像してた大人は立派だった。
社会人の誰しもが思う事だろう。大人って子供っぽい。
子供の頃、想像してた大人は立派だった。
大人は社会を良くしようとみんな助け合うと思っていた、子供たちの将来のために手を取り合うと思っていた。
でも実際のところ自分の事でみんな必死だった。
また、子供の頃のクラスメイトのように様々な思いや考えも持っていた。
先生はいないけれど社会にはいくつもの大きな教室があるようだ。
その中で大人たちは子供のように必死に生きている。
転職という形で、私はその教室の一つを卒業(中退かも...)した。
この判断が正しかったかは分からない。今でも毎日不安だ。
それでも、新しい何かを知りたいと思った。
初めて一歩踏み出したいと思った。
小学生の頃、流されるまま普通の幸せを夢見た僕に
「よかったな」と言ってやりたいんだ。