『牯嶺街少年殺人事件』を見た!
(これは2018年1月11日に書かれた感想を再掲したものです。)
クーリンチェ少年殺人事件である。とにかくあのクーリンチェ少年殺人事件である。
映画本をある程度読んだりしていると、必ず「名画」として紹介されるあのクーリンチェ少年殺人事件。
でも長らく権利関係によりディスク化されておらず見るには市場になぜか出回っているBSで放送された録画版を見るしか、海外版を買うしかなかったなかったあの映画。
しかし、ついに1年前、あの名画がリバイバル上映されるようになった。しかもマーティン・スコセッシ監督主導による4Kデジタルリマスター版で。
私は当然のように「見たい!見たい!見たい!」と唸ったが、当時はあまりにも忙しすぎた。4時間の映画を見る余裕が当時の生活には無かった。
そうしているうちに上映は終わった・・・ように思えた。
しかし結構ありとあらゆる映画館でやっているようなのだ。
そしてそのたびに「うわー見に行きたい!」となりつつも、2017年の私は体調不良のために見に行けなかった。(体調不良の話が多くてすいません。どうしても今の私と体調不良は不可分なもので・・・)
2018年始まり、実家に戻っていると京都に新しく出来た出町座という映画館で「クーリンチェ少年殺人事件」がかかるというではないか。
私はクーリンチェ少年殺人事件を見るため、じっくりと睡眠を取り、外出をせず、とにかくこの4時間の映画に備えたのだった。
で、やっと見た。クーリンチェ少年殺人事件。
見終わった瞬間は登山を終えた時のような気分になった。
なにせ4時間である。
とにかく見終わって数日は4時間の映画を咀嚼するので精一杯だった。
面白い、面白くないという映画の原始的な感想は元よりも、とにかく遂に見てしまったという気持ちが先だったのだった。
数日経って、自分の中でクーリンチェ少年殺人事件というのはこういう映画だったのではないかというのがおぼろげであるけども見えてきた。
この映画は61年に台北で実際に起きた事件に着想を得ているとのこと。
14歳の少年がガールフレンドを殺してしまったというその事件。
その事件が起きた場所が「クーリンチェ」である。
言うてしまえば少年が大好きだった彼女をふとしたきっかけで殺してしまったという今でもたまに見かける愛憎系事件である。
しかしエドワード・ヤン監督はこの3面記事的な事件(といっても台湾で始めて起きた未成年による殺人事件なので、当時としてはとても衝撃的だったものなのは想像がつく)を「4時間」かけて描く。
物語は主人公の小四(シャオスー)が中学受験を失敗し、夜間部に入学が決まるところから始まる。
そして小四が映画スタジオに忍び込んで、突発的に「懐中電灯」を盗むところを描く。ボーイ・ミーツ・ガールはまだ先だ。
その後、小四の周囲の不良グループの小競り合いが描かれる。
常に充満している暴力の気配。
賭けビリヤード。レンガで殴られる子ども。カンニングをさせろとせがむ同級生。ボーイ・ミーツ・ガールはまだ先。
時間を取って小四とその周囲の環境が描かれる。
冒頭に表示される字幕には当時の台湾の状況が書かれる。
中国から渡ってきた外省人と呼ばれる人々と台湾に元々いた内省人との対立。時代に翻弄される大人たちの不穏な空気は子どもたちに伝播していったことも。
小四が小明(シャオミン)に出会うころには小四の暮らす世界の息苦しさをすっかり私たちは堪能している。生きづらい。誠に生きづらい。(個人的には男子学生のきりきりとした争いに中学~高校を思い出した。生きづらかった~!)
小四は小明と出会うのは保健室だ。2人はひょんなことから授業をさぼって出歩く。まるでデートのようでほほえましい。
でも、その瞬間にも遠くの方で軍隊の演習は行われているし、小四は別の不良グループから小明に手を出したと絡まれる。
小明を巡って二つのグループが争いになったことがわかる。小明は遠くへ消えた不良グループのボスのハニーのことをまだ思い続けている。小四はそのことに気がついていてとても心苦しい。
学校には転校生がやってくる。別の学校でほかの子どもを切りつけたと噂になっているやつだ。
そいつと仲良くなる。そいつは言う「日本刀は家の屋根裏から見つけたんだ。お前の家の屋根裏にもあるかもしれないぜ」
こういった武器は日本統治下の名残だ。
不良グループの争いの末にある悲劇が起こる。
小四は小明に言う。「僕が君を救ってあげる。僕はずっと君の友達だ」
小明は「世界は変わらない」と言って離れる。
4時間かけて描かれるのは小四と小明が出会い、そしてその関係が次第に変化し、そして殺害に至るまでの物語だ。
その殺人事件は概要だけ取り出せばただの男女の痴情のもつれと処理される物だ。
でも、この映画はそうじゃないってことを伝える。
この殺人事件はそう簡単に処理していいものなんかじゃないと伝える。
殺人事件が起こるまでには小四と小明の関係があって、その周囲には子どもたちの関係があって、そのさらに周囲には大人たちがいて、その周囲には国家があって、そして世界がある。
殺人事件が起こるまでにマクロがミクロに影響していくのを4時間かけて描いた物語なのだ。
エドワード・ヤン監督は1961年の台北に観客をたたき落とす。
あの時代の台北を映像だけでなく皮膚感覚で伝えてくる。
といっても映像はいわゆるドキュメンタリータッチなんかではない。いわゆる手持ちカメラで撮られたようなシーンはほぼない。
どのシーンもまるで絵画のような構図と、極端に明暗が表現された光設計で描かれる。
説明的な台詞はほぼなく、我々は膨大な数の人間関係も状況も全て目の前の映像からくみ取るしかない。
その一方で物語を語る際、省略が多様される。
説明もされず、省略も多様されるので一瞬も気を抜けない。
私たちは必死に映像から情報を取りだそうとしなければいけない。
その結果であるけども、私は1961年の台湾にいたような気分になった。あの世界に4時間いたような、もしくは1年間いたようなそんな気分になった。
でも、ただいただけだ。手出しはできない。
人々の姿は極端な引きで描かれる。
小四と小明がとてもパーソナルな話をしているときでさえ、残酷なまでに周囲にいる人々の動きも描く。
帰宅の準備をする購買のお姉さん。移動する生徒たち。木々の動き。風の流れ。それがとてもパーソナルな会話をする彼らの周囲で蠢いている。
それを私たちは見るしかできない。
どこへ行っても二人きりになんかなれない彼らの姿を見ることしか出来ない。
いつだって世界がずっとそばにいる。
後半明らかになるのは小明のファムファタールっぷりだ。
いかに彼女が周囲の人々を惑わせてきたかの姿が徐々に明らかになる。
彼女の依存体質も、彼女の真の姿も。
いや、ずっと小明はそのままの、本来の彼女の姿でいたのだ。
でも、誰もかも、向き合おうとはしなかった。
いや向き合えなかった。
本当の意味で、彼女を救えるものはいなかったのだ。
彼らを取り巻く世界はまるで劇中に出てくる暗闇のようだ。
1961年の台湾は誰も彼もが疲れ切っている。
大人たちは暗闇の中でもがき、暗闇からなんとか這い出ようとするが、暗闇は色濃くて抜け出すことができない。
大人たちは子どもたちに暗闇を切り開くことを託す。
大人たちでも切り開けなかった暗闇なのに。
子どもたちははその暗闇を懐中電灯のわずかな光だけで進んでいく。
でも、小四は文字通りのその光を手放して、武器を持つ。
その武器はあの戦争の名残だ。
小四は小明に言う。
「君のことを全部知っているよ。でもいいんだ、僕だけが君を救うことができる。君には僕だけだ」
悲痛な小四の言葉に小明にこう返す。
「あなたも他の人と同じ。優しくするのは私の愛が欲しいからね。でも、私はこの世界と同じ。変わることはないわ」
もしあのとき、懐中電灯を手放さなかったら?
小四はそれでも光を照らすことを諦めなかったら?
もしくは、あの日に世界を変えることを諦めて姉の勧めを受けて救いを「宗教」に求めていたら?
でもそんなこと誰にだってわからない。
この世界の全てがまるでこの殺人事件のお膳立てをしていたように事件は起きる。
あの戦争の名残りの刃物で小四は小明を刺す。
その殺人事件は突然起こったように見える。
でも、そうじゃないのだ。
4時間かけて私たちは見てしまった。
全てを。世界を。1961年の台湾を。内省人と外省人の軋轢を。不良グループのいざこざを。子どもたちの争いを。友情を。家庭を。小明を。小四を。
劇中流れるエルビス・プレスリーの「Are You Lonesome Tonight?」の歌詞を引用したい。
「君がそんなにつらいのなら 戻ってあげようか? だから言ってくれ 今夜は僕が恋しいと」
映画を見た後では小四の悲痛な叫びに聞こえる。
一つの殺人事件からその周囲の全て、そう文字通り全てはこの四時間の映画に刻み込まれた。
全てのシーンがうっとりするほど美しくて、嫌になるほど悲痛で、もう二度と戻れない望郷の香りに包まれている。
スクリーンに映し出された光と闇を一生忘れることはないだろう。
映画が終わって、この日が2018年の1月であることを思い出したのは手に握った分厚いコートを見たからだ。あの4時間はあの明るい夏の日にいたのだ。
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