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植物生産現場における「センス」ってなに?

植物を育てるのに「センス」は必要か。
僕は声を大にして「必須」と答えたい。

例えば、とある鉢花を出荷する段階で、一定の規格におさめ、見栄えを良くするために手を入れることがある。
花の位置、葉の数、鉢の中のゴミ取りなど…。
最後に全体のボリューム感や仕立てた見栄えによって、その植物の「グレード」が決められる。

そこで言われるのが「センス良く仕上げてね」という魔法の言葉だ。

よく「デザインセンスがないから、私にはこの作業は向かない」と言う人がいる。
しかしそれは、大きな勘違いだ。

そもそも「センス」というのは和訳すれば「美的感覚」であり、その感覚は鍛えることができる。
多くの人から「センスが良い」といわれる完成品を観察したり、それに近くなるように調整すればよいだけのこと。
「センスがない」というのは一言で言えば、修行が足りないのと同意なのだ。
数をこなせば、植物を育て上げるセンスは身につく。

ただ、重要なことは労働における「センス」の趣旨には意図が働く。
上記の「センス良く仕上げてね」という言葉には「あなたの感性に任せたから、きれいにうまく仕上げてね」という意味を持つ。
つまり「センス」の一語には、

① 一定の作業法は教えたので、あとは作業者の責任で調整すること
② 命令者の伝達能力が閾値を超えたため、惰性で作業を指示すること(≒基準を明確に定義できない)

という意味が含まれていて、従業員などの作業者を多分に惑わす。
さらにいえば、そのあとのフォローの仕方で、成果物の完成度も変わる。
なぜなら、指示役が、その作業命令の意図を理解していなくとも一任したのだから、出来上がる成果物に対してどんな否定も許されない。
その作業の不出来を責めるのなら、「センス」という枠におさめて作業を命令してはいけないのだ。

もし「センス良く仕上げる」ように指示を出したのなら、作業者にその意図を聞き出し、褒めるべき点を褒めればよい。
そのうえで、直すべき点を手短に優しく伝えるだけでいい。
それを頭ごなしに否定した場合には、その作業者のこれまで培ってきた経験や観察眼、さらには手先の器用さなど、あらゆる「実績」を否定することになる。
それこそが「センス」なのだから。

そして、最後に言いたいこと。
「センス」は理屈だ。
一定のセンスを身につけることができたとき、あらゆる最小単位の「センス」を言語化できることに気が付くだろう。
鉢花における正面の定義、株の充実性、花の鮮度感など。
あらゆる小さな事象が積み重なってできた行動が「センス」であり、その結晶が1つの鉢物となる。
その言語化できた「センス」を誰かに伝えることによって、また見聞したからこそ、植物栽培のレベルが底上げされていく。
ゆえに、自分以外の他の誰かに「センス」を伝えることができないことこそ、「センスがない」のだ。


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