僕らは「不要不急」を生きていたんだ。
「新型肺炎」の感染者がはじめて日本で確認された日。
あれは1月ごろだったろうか。
そのときのニュースで報じられたキーワードに「濃厚接触」があった。
それまで聞いたこともない「濃厚接触」という言葉に僕は、いかがわしい思いを巡らせてしまったのは言うまでもない。
厚生労働省による濃厚接触の定義は、
必要な感染予防策をせずに手で触れること、または対面で互いに手を伸ばしたら届く距離(目安として2メートル)で一定時間以上接触があった場合に濃厚接触者と考えられます。
とのこと。
今日も仕事では、「濃厚接触」の連続であったし、冗談交じりに「濃厚接触してま~す」と笑いあってもいた。
不謹慎で危機感のないのは承知だが。
思えば「濃厚接触」という言葉が、遠いところからより身近へと近づいてきたように思える。
医療用語が日常生活に定着し、その言葉の浸透力にさえ不安を感じる。
濃厚接触せざるを得ない仕事の最中、そんなことを感じたのだ。
今の僕は当たり前のように、例年通りの仕事をこなし、日々の買い物をし、そして(都市部に比べ感染者の多くはない)群馬県在住とはいえ、休日は家に閉じこもる生活を送っている。
けれどこの先、状況がどう変化するのか分からない。
日に日に増加する感染者や、周囲に起こる影響を耳にするにつけ、このまま収束するとはどう考えても、あり得ない。
恐らく状況は刻々と悪化するだろう。
そう考えたとき、普通にショッピングや旅行に行きたくなった。
普通に家族や友人とも会いたくなった。
普通に恋愛もしたくなった。
そして思い知ったこと。
そうか、僕らは「不要不急」を生きていたんだ。
「不要不急」のなかで起こるあらゆるイベントを生活に糧にし、「不要不急」のなかで出会う人との関わりの中で日々を営んで来たのだと…。
きっとこの先、僕らの眼前には「不要不急」の天秤が常に置かれていて、一挙手一投足をその秤にかけられる。
「不要不急」か、そうでないのか。
感染者数が増加するにつれその天秤は、不要不急に良く傾き、経験したことのない国民の消費傾向を僕らは体験するはずだ。
つまり、買い手、売り手ともにあった常識が通用しない。
昨日までの常識は非常識で、今日からは非常識が常識。
そして明日は、チャンスだったものがピンチとなり、ピンチがチャンスに変わるだろう。
で、結論。
この状況が長くなればなるにつれ、「不要不急」を排除した範囲内での生活行動が、今後の生活に大きな影響を与えると僕は思う。
つまり、いまの暮らしに慣れてしまえば、その生活における行動様式が固定化し、たとえばそれまで遠くまで出かけていたものの不要さ加減に気が付くだろう。
そう考えると、いまの自らの暮らしぶりに、感度を高めるべき。
今日明日の休日に僕らは何をしたのか、そして何をしなかったのか。
そんな反省のなかに大きな気づきがあるのかもしれない。