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【小説】瞳と葡萄(阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作)

手を伸ばせば今でも、やわくつややかな肌に触れられるんじゃないかと思って、目を覚ます。だけど部屋には誰もいないし、カーテンのすき間からこぼれる光があまりに青いので、僕は泣いてしまいたくなる。ゆらりとロウソクの炎のように起き出して、大学へ向かう準備をする。その間にも空っぽの写真立てが目に入って、氷水を胸に注がれた気持ちになった。

恋をしていた。だけどそれは、過去の話だ。恋をしている、と現在形ではもう、彼女は言わせてくれはしないだろう。

三限のゼミの前、仲間と落ち合って食堂で昼食をとった。僕は皆に、バイトを募集しているところはないかと訊いた。何か新しいことを始めないといけない気がしていた。

「あれ、でも良樹、ファミレスでバイトしてたんじゃ……」

と、悠也が言いかけたのを、隣で健がさえぎった。健は、僕の事情を知っている。つまりバイト先で会って付き合った子と、最近僕が別れたことを。健は「何かあったら言うわ。友達にも訊いとくしさ」と怪我人をいたわるように言った。

健の配慮には感謝したが、気づかいが傷にしみるようでもあった。今、世界の何もかもが冴えてない。友人との会話も、真昼の太陽も、新メニューのかき揚げ丼も。どれもが鬱陶しく、気だるい。何より、失恋「ごとき」で暗澹とした気分から抜け出せない、自分がひどく重苦しい。

ただでさえ気分が冴えないのに、悪いことは重なる。ゼミでは先生が勝手に僕を指名して、次のプレゼンの担当者に決めてしまった。抗議する力も持ち合わせておらず、僕はうなずくともうなだれるとも取れないポーズをする。

――本当に冴えてない。


元カノは、ファミレスの社員のひとりだった。彼女はまだ二十代前半だったがとてもしっかりしていた。僕は、夏休みの間だけ働いて辞めるつもりだったが、彼女がいたから夏休みが終わっても働くことにした。秋になって僕から告白した。それから一年近く付き合った。年上の彼女だったから、何をするのにも緊張した。手をつなぐのも、キスもセックスも、彼女がリードしてくれた。彼女が見つめてくると、僕は目をそらしたくなった。自分のふがいなさを、いつか責められそうで怖かった。目をそらしてから表情を盗み見ると、彼女の瞳に寂しそうな色がさしていて、僕は焦って彼女の手を握る。それでも、じっと見られ続けると困った。

別れたきっかけは、本当に些細なことだった。アイスクリーム屋で、僕の注文に対して彼女が「チョコミントなの?」と不満をもらしたのがきっかけだった。そこから急転直下、別れ話になった。

でも、アイスのせいで別れたんじゃない。元凶はほかにあった。僕らは相手の嫌なところを伝えずに、互いに我慢していた。耐え切れず爆発したのだ。喧嘩の間、彼女はヒステリックだったし、僕も頑固だった。

「信じらんない、もう連絡してこないで!」

――ゼミの発表のために図書館で資料を探しているときも、彼女の言葉が蘇ってきた。憎々しげに叫ばれた言葉は、さすがに堪える。思い出すだけで吐き気がしてきた。僕は、資料探しどころではなくなって、共同用の大机へ行って椅子に腰かけ、顔を伏せて眠りに落ちる。そして、まだ幼かった時分の夢を見た。

幼稚園にも上がっていなかった頃のことだ。巨峰がおやつに出された。とても立派で大きな実をつけていた。黒々とつややかで、触れると冷たさが指先に伝わった。たまらず手で一粒引きちぎった。一粒が手いっぱいに収まるほどだったので、よほど僕は小さかったのだろう。そのまま僕はかじりついてしまったのだ。皮もむかずに。途端、皮の渋味が口中に広がって、僕は慌てて吐き出した。信じられないほど不味い。水を飲んでもまだ渋かった。

僕は知らなかったのだ。甘い果実は、渋い皮の先にあることを。瑞々しく、つるりと喉を通っていく、本当の美味しさを知る前に僕はぶどうを嫌いになり、その記憶のせいで今も苦手なままだ。

目を覚ますと、外は暗くなっていた。僕は帰り支度をしながら考える。もし、ぶどうの皮の先に果実があると知っていれば、僕はぶどう嫌いにならなかったんだろうか。皮は渋くて厄介だけど、少しだけ手間をかけて除けば、今もきっと好きだったはずなのに。

外に出たとき、ふいに彼女の瞳が寂しげに翳(かげ)るのが思い出された。僕は幼い頃と同じ間違いを犯したのかもしれない。彼女のことを知らないまま、手を離してしまったのだから。

彼女と改めて向き合いたかった。彼女はまだ、僕の話を聞いてくれるだろうか? 暗闇にたたずみながら、僕は彼女を想っている。




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