練馬区に現存する大正時代の洋風建築について
近代建築好きな方!
この洋風建築、大正時代に造られたと一目で気付けますか?
ワタクシは40年間気付けませんでした。
これ、としまえんにあるんですよ。
遊園地だと普通、西洋のお城っぽいのがあっても「ああ、遊園地によくあるよね」くらいにしか思わないじゃないですか。
ましてや自分が子供の頃はホフブロウってドイツみ溢れる店名のビアレストランだったのですから大人になっても「ドイツレストランの跡地だねっ」としか思ってなかったわけですよ。
このお城っぽいたてもの。その名も古城。
ある日、それまで全然行くことがなかった古城のお手洗いにたまたま寄ったんですね。
そこで「アレ? このコテ絵にモールディング…もしかしてキミ、近代建築だったの!?」と気付いたわけです。
そもそもトイレ入口周りの意匠も、なんだか奇妙。
古城はもはや遊園地の外にあり、年パス発行事務所となっていたので寄る機会がなく、遠目に眺めたことしかありませんでした。
遊園地の中から眺めるとこんな感じ。これではね。
お手洗いに行くまで近代建築だとは気付けませんでした。
この古城、豊島園開園当初(大正15年)からあるのですって。
しかも竣工当時の姿ほぼそのまま。
全然知らなかった!
だってまったく近代建築然としていないんだもの。
それにしたってこれまで気付かなかった自分が悔しい。
大正時代に造られたとはいっても、大正15年は昭和元年でもあるのでそこらへんちょっと大袈裟なのですが、豊島園が大正15年9月開業である以上ウソではないので「大正時代に造られた近代建築」と呼んでしまうことにします。盛ってる自覚はあります。(苦笑)
そして自分が狭く浅く探した限り、古城を近代建築として深く調べたという話は見つかりませんでした。
おーい、専門家! 誰かやってよ~!!
と思ったところで、こんな近代建築然としていない謎の建物、専門家さんの心にはあまり引っ掛からないのかもしれません。
というわけで、素人かつアホな文章しか書けないワタクシですが、まずは自分で調べてみることにしました。
だって豊島園、子供の頃の思い出がたくさんの、懐かしい場所なんだもの。
今まで気付かなくてごめんね。
…と思ったのが1年前。
としまえん閉園の頃でした。
今頃記事にするのかい!って感じでホント恐縮です。
なにせ素人が調べたことですからどこか間違いやら変な箇所があるかもしれませんが、そのときはこっそり指摘してやってください。
専門家さま、どうかご容赦くださいね。
古城について
豊島園の造園を担当した戸野琢磨氏(日本初の造園設計事務所を設立したランドスケープアーキテクト)は、練馬城址にイギリス式庭園を造りました。
イギリス式庭園の特徴は「自然風景式庭園」。
フランス式やイタリア式の整形庭園とは対称的に、地形のなだらかな勾配を活かし、自然風景のように造られた庭園を指します。
こちらの画像はイギリス式庭園の特徴がよく表れています。
本場イギリスでは18世紀、教会や城の廃墟を装飾物として活かした庭園を造ることが流行りました。
それが発展すると、今度は庭園を装飾するためだけにわざわざ廃墟に似せた建造物を新しく造り、庭園に設置することが流行り出しました。このように、庭園の装飾を目的として造られた建造物やオブジェをフォリーといいます。
戸野氏は、表向きには給水タンクを隠したりテラスを食堂にするという目的で古城を設置しました。(※1)
しかし、戸野氏は古城の外観を「渋い廃墟の趣きを出すのに努力した」(※2)と述べていることから、給水タンクや食堂の設置を大義名分として掲げつつ、胸の内には本場イギリスに倣ったフォリーによる装飾をし、イギリス式庭園を完璧なものにしたいという野望があったのではないかと個人的に推測しています。…これでは推測というより邪推かな?(苦笑)
でもそう考えれば、美しい庭園に建てる洋館をわざわざ廃墟風にした理由に合点がいきますからね。
戸野氏は古城を「英国風」と述べていますが、「英国風」とは?
古城の意匠を調べていくうちに大変興味深い発見がありました。
古城は、教会や城、図書館などイギリスにある数々の有名建造物のデザインを散りばめた「イギリスの名所 寄せ集めフォリー」とも言える建造物だったのです。
えっ! ドイツじゃなかったの!?
はい! イギリスですっ!!
いいんです。このトリッキーなんだかテキトーなんだかわからない感じこそ、豊島園の良さなのです!
(としまえんファンは同意してくれる気がする。いや、怒られそうな気もする。)
これから、古城のどこにどのような建造物のデザインを取り入れたのかをご紹介してまいります。
現在では「パロディ」「パクり」などと言われてしまうかもしれませんが、明治・大正・昭和初期の建物には海外の建造物を参考にした意匠が数多くみられます。(迎賓館赤坂離宮がヴェルサイユ宮殿に似ていることは有名ですね。)
そのような時代の建造物として、この発見をお楽しみいただけたらと思います。
古城、謎の様式
まずは昭和10年頃の絵葉書で、古城の全体像をご覧ください。
塔も、塔の左下にある倉庫(現トイレ)上の奇妙な装飾も、現在とほとんど変わっていないでしょう!
そして古城は鉄筋コンクリート造。
もう少し前に建てられていたら煉瓦造りになっていたかもしれませんが、豊島園開業の3年前に発生した関東大震災の経験からコンクリート造にしたのではないかと思われます。
塔のファサードは組積造を模したサクソン様式風となっていますが、モルタル仕上の外壁にクォインとブロック風タイルを組み合わせる装飾はチューダー様式風でもあり、時代が離れた2つの様式が混在する不思議な建築となっています。
時代が離れた2つの様式が混在する建築自体は珍しくないけれど、古城は…
不思議というより、ヘンテコと言った方がいいかも?
なぜ、こんなことに!?!?
古城、あちこち模す
①古城 塔部分
古城の塔部分は、イギリスのオックスフォードで一番古い建物とされるサクソン・タワーを模したものと思われます。
古城はサクソン・タワーの組積造をモルタルで表現していたのですね。サクソン・タワーの下部にもクォインが見られます。
両者を比較してみましょう。
どちらも尖頭アーチのドアで雰囲気が似ています。
窓はどうでしょうか。
どちらも2つ並んだ半円アーチの窓枠の間に、神殿の円柱を思わせる装飾がしてあり特徴が似ています。
②古城 バルコニー部分
古城バルコニーの大変特徴的な意匠は、イギリスのマンチェスターにあるジョン・ライランズ図書館を参考にしたと思われます。
ジョン・ライランズ図書館(ネオ・ゴシック様式)は下記リンクから。
リンク先3番目の画像をご覧ください。
扇状にせり出している部分の意匠を古城のバルコニーに取り入れたと思われます。
バルコニー下の壁に施された尖頭アーチの装飾もここから取り入れたのでしょう。たぶん。(尖頭アーチの中にみっちり嵌まっている三葉形アーチの装飾は、後付けっぽいなぁ。)
③古城 バルコニー&倉庫(現トイレ)部分
古城バルコニー下、弧を描いた外壁に三角アーチの開口部がいくつも並ぶ様子はイギリスのランカシャーにあるランカスター城に似ています。
まずはこちらから。
バルコニー下がまだ三角アーチの開口部だった頃の画像です。
そしてランカスター城はこちら。
(ランカスター城は三角アーチというより半円アーチと緩やかな尖頭アーチの中間みたいな開口部です。)
比較しづらくて申し訳ありませんが、PCからであれば画像を別窓で開いて両者を見比べていただくと、なるほど似てなくもないな、くらいには思っていただけるかと思います。
古城正面側はトイレとなり三角アーチでなくなりましたが、それ以外の開口部は現在も三角アーチを保っています。
こちらバックヤードの画像に少し写っているので確認できます。
④古城 吐水口(魚のオブジェ)部分
魚が水を吐く意匠の噴水は世界に複数存在しますが、ロンドンのレスター・スクウェアにある噴水の魚の膨んだ額、厚い唇、顔の横から生えたヒレは豊島園古城の吐水口の魚と大変似ています。
吐水口の模様は TOSHIMAEN の T かな?
⑤古城 トイレ付近のレリーフ
古城 正面階段の横の壁にはコテ絵のレリーフがあります。
フルーツ盛の左右に花綱がありますが、これはアイルランド ダブリンにあるカジノ・マリノのレリーフを取り入れたのではないかと思います。
( アイルランドは豊島園開業の大正15年当時、イギリス自治領でした。)
花綱はよくあるデザインなのに、なぜカジノ・マリノと特定できたのか?
詳しくは後述しますが、カジノ・マリノの意匠は古城以外でも採用されていたからです。
豊島園、あちこち模す
戸野琢磨氏は古城だけでなく、豊島園の様々な施設で海外の有名建築を模しています。
そもそも戸野氏自身、睡蓮の池大階段を「アルドブランデニの滝を模した大滝」(※3)と述べています。
ここからは古城以外の「模しスポット」もご紹介してまいります。
⑥古城裏の庭園にあった噴水
練馬わがまち資料館 1954年の画像をご覧ください。
かつて古城裏にあった噴水は、先述のカジノ・マリノを模したと思われます。
比較してみましょう。
コーニスの造りや神殿風円柱の柱頭の形状が似ています。
そして
古城裏噴水のてっぺんにあった唐突な壺。
これはカジノ・マリノのパラペットにある壺の装飾を取り入れたようですね。
なお、この壺の正体は煙突だったようです。
カジノ・マリノも生い立ちはフォリーとして誕生しています。
⑦音楽堂
音楽堂は、フランス ヴェルサイユ宮殿内にある Temple d‘amour をほぼコピーしています。
Temple d‘amourはヴェルサイユ宮殿内のイギリス式庭園にあるフォリーで、古代ギリシャ・ローマ風の外観をしています。
音楽堂とのわかりやすい違いは円柱の数と形状でしょうか。Temple d‘amourは12本で柱頭がコリント式、音楽堂は10本で柱頭がイオニア式です。
⑧プール・池
戸野琢磨氏自身がヴィラ・アルドブランディーニの滝(イタリア フラスカーティ)を模したと述べている、睡蓮の滝。(大階段)
奥の手すりと段々になっている滝が似ているでしょうか。
また、シャワーの滝も同じくヴィラ・アルドブランディーニを模したようです。
古城のセンスは看板建築と似ている?
もともと古城を「なんか怪しいな?」と気付けたのは、フルーツ盛のレリーフや持ち送りが看板建築の趣向と似ていたからです。
例えば、こちら。
この看板建築にも、フルーツ盛のレリーフや持ち送りが施されています。
偶発的なモチーフ被り。
きっと当時は(今もか?)フルーツ盛がオシャレだったのですね!
看板建築は、自由な発想の「洋風」が見られるのも魅力のひとつです。
外国へ行ったことがない職人さんが、何かの資料を見聞きして「イケてる!」と思ったモチーフを自分なりに昇華し、形にしていったのではないかと思います。
私は個人的に古城の意匠は、カッチリ重厚な近代建築より、看板建築のフリーダムさに近いかな、と思います。
看板建築で腕を鳴らした職人さんに、戸野琢磨氏が図面か写真か何かを見せて
戸野「こういうの作ってよ」
職人「よっしゃ、まかせとけ!」
みたいな光景が目に浮かぶんですよね… 完全に妄想ですけど。
結局古城とは、何者なのか?
古城を調べ始めた頃は「大正時代のすごい洋風建築が、人知れず残っていました!」というストーリーの裏付けをしたかったのです。
としまえんが閉園する以上、解体されてしまうかもしれない。今のうちにある程度調べて此処にこんな近代建築があると周知し、然るべき所にきちんと調べてもらわなくては!と思いました。
ところが古城は調べれば調べるほど時代・様式の違う複数の建造物をがっちゃんこしたツギハギで、「大正時代の近代建築」というより「大正時代のヘンテコ建築」といった方が相応しい気がしてきました。
時代的には近代建築ですが、果たして近代建築と呼べるのかどうかも…。
冒頭では古城をフォリーとしましたが、本来フォリーは装飾以外、何の役にも立たない建造物のことを指します。
「給水タンクを隠すため、そして食堂にするために建てた」というストーリーからすると、古城はフォリーではありません。
しかし「フォリーの定義は厳密には決められていない」らしく、古城とフォリーは関連性がないどころか 、最初から庭園の装飾のため廃墟の趣きを纏って誕生した古城はむしろ、概念としては全くもってフォリーです。
何の役にも立たない馬鹿げた建造物であることからフォリーの語源はfoolishだそうで、直訳すれば「おバカ」。
悪意をもって言い換えるとフォリーは「おバカ建築」とも言えます。
古城=フォリー=おバカ建築と解釈すれば、ツギハギのヘンテコ建築でも、様式が謎でも、最初から廃墟を目指していても、全て辻妻が合う気がします。
「給水タンクをフォリーに隠しちゃえ!」 ということではなかったのでしょうか?
昭和10年の写真をもう一度よ~く見ると、古城には扉や窓ガラスがなく、屋内も吹きっさらしです。(食堂は塔右横のテラスにありました。)
古城はやはり、大正時代のフォリーと言えるのでは?
建てられた当時の外観をほぼほぼ保ち、且つ、ここまで大きさのフォリーは、国内にそうそうないのでは?
なぜこんなもの造ったの?
もし「様式にこだわらず、良いと思ったものは取り入れる」のが戸野琢磨氏のスタイルであるとすれば、様式がまぜこぜの建造物は、むしろ戸野氏の作品である証と言えるかもしれません。
これは戸野氏が造園家だからこそできたことで、もし建築家であれば古城のような、ある意味デタラメな建築は造らなかった(造れなかった)かも。
開業当時の豊島園。
庭園はイギリス、池はイタリア、あっちはフランス、こっちは日本庭園。
あっちはこの様式、こっちはこの様式、あっちはどこの国こっちはどこの国 調べれば調べるほど深まる謎。
この無節操も考えてみれば、まるでユネスコ村のようです。
「今ほど簡単には海外に行けなかった時代の庶民でも、気軽に異国の雰囲気を楽しめる場所」を目指し、海外を見てきた戸野氏が、自分が見知ったものを再現して楽しんでもらおうとしたのでは?
そう考えると、非常にポジティブな建築に思えてきます。
豊島園と古城を通して、昭和初期の人々のライフスタイルが目に浮かんできませんか?
思えば『史上最低の遊園地』と広告を打ち、 サンタフェの扉を展示し、 渦巻がぐるぐる回るだけのTVCMを流し…、と数々やらかし、そのたびに人々を笑顔にしてきた、としまえん。
優しさで造られたおバカ建築。
大正時代の開業当時からトリッキーだったとは、なんとも、としまえんらしい話ではありませんか。
もちろん戸野氏が大真面目に、大志を抱いて豊島園をデザインされたことは “遊園地としての豊島園”を読めば明らかで、「おバカ建築」などと呼ぶのは戸野氏に対して大変失礼なことです。
けれども古城を「おバカ建築」と思ってみると、私達をいつも笑顔にしてくれたとしまえんの懐かしい温かみを感じ、親しみが湧いてくるのです…私はね。
古城はどうなる?
古城がこの先どうなるのかは全くわかりません。
もちろん個人的には残って欲しいです。
近代建築好きであれば大正時代の洋風建築という時点で「解体してもOK」とはまず思わないでしょう。多少ヘンテコではあっても。(笑)
そして大正15年の豊島園開業時から唯一遺った建造物ですから、としまえんがこの場所にあった証のモニュメントとしてなんとか遺って欲しいと思っています。
奇しくもハリー・ポッターはイギリスが舞台ですし、これもきっと何かの縁ということで。
※ 記事中、“遊園地としての豊島園”からの引用文は、旧字体・旧仮名遣いを新字体・現代仮名遣い及び平仮名にしてあります。
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