冷戦期の自衛隊〜赤い津波の防波堤〜
背景情報〜昔ソ連っていうクソデカ国家があったんですよ〜
昔々あるところに、ソヴィエト社会主義共和国連邦っていうクソデカ国家(バチカン市国50909091個分の大きさ)がありました。
この国は崩壊するまで、我が国の大きな安全保障上の脅威として存在し続ける事になります。
この国は基本的に『共産主義っていう思想で世界中を赤く染め上げたい』という行動原理に従って動いていた(と当時西側では考えられていた)為、この国の近くの国や、この国の同盟国の近くの国はどうしてもこの国の事を気にしなければなりませんでした。
しかもこの国、軍事力の行使も平気でやるようなタイプの超大国だったのでマジで厄介だったんですよね。
後通常兵力、核兵力でも基本的にNATOに対して優越してました。
何せソ連地上軍だけで3,668,075人(1991年の数値)の人員数を誇るのです。人員数だけで陸上自衛隊大体24個分にもなるこの軍隊は210個以上の師団を有していました。これで西ヨーロッパを踏み潰すつもりだったのです。
今でこそソ連内部の情報は殆どが公開されており、詳細資料を手にとって見ることができますが、当時ソ連内部は殆ど完全な闇に包まれていました。しかも冷戦の初めの方はニアリアルタイムで高精度写真を送ってくれる偵察衛星なんて便利なモノも無かったので、西側当局者は『赤の広場』をガチョウ足行進するソ連軍を血なまこになって分析するしか無かったのです。
どれぐらい当時の西側諸国がソ連の内情を把握できなかったかと言うと、潜水艦に付いてるちっちゃい構造物の意味すら理解できておらず、戦車の開発系譜すら完全に勘違いしていた位には闇に包まれていました。西側的な自由と人権は米空母艦載機が飛び回れる場所にしか存在しないので、東側諸国は滅茶苦茶強力な秘密警察(防諜機関)をブンブン振り回しては国民ごと西側の情報収集手段を無効化していたのです。人間はその性質として、わからないモノの大きさはその実体よりも大きく考えてしまう節があるという事は諸君も良くご存知だと思います。だからこそ、当時の西側諸国にとってソ連は畏怖すべき存在だったとも言えるでしょう。
しかし公式資料や衛星写真、戦略偵察機なんかで概ねの戦力配置やら何やらは推測できていた為、西側諸国はそれを元に各種軍備を行いました。
しかしジッサイ分からないとは怖いモノで、冷戦期にはそれこそ機甲部隊の津波が核兵器トッピングマシマシで押し寄せて来ると本気で思われていました。
そしてそれはヨーロッパの反対側、日本でも同じだったのです。
所要防衛力構想~要るものを要る分だけ~
よぅし、やっと建軍も出来たし戦力を整備するぞぉと張り切っても、この頃の陸上自衛隊は『陸自方面総監が並立している』とかいう陸軍の力を削ぎまくったクッソ非効率な組織をしていたので、内局が政策決定に大きな影響力を持っていました。
我が国の防衛政策文書はおおよそ三段階で構成されており、上から『大方針』『具体的施策』『予算』と分類出来ます。
1957年に『国防の基本方針』が定まって以降、日本はこの大方針を携えながら冷戦を戦い抜きました。何とコイツが改定されたのは2013年、第二次安倍政権の時代です。
まぁ見ての通りクッソガッバガバだったので改定する必要があんまり無かったんですけど。
で、こんなガッバガバの『大方針』の下、取り敢えず『脅威に見合った防衛力を整備しよう』というのが『所要防衛力構想』です。
当初防衛力を整備するにあたっての「脅威」とは、予想される相手国の「意図」と「能力」によって構成されると定義されました。
これは当時のソ連極東軍が全力で攻めてくることは想定せず、飽くまで「小規模かつ限定的な」侵攻を独力で排除出来るようにする事を目的として各種能力が整備されました。
なお、当然そんな生ぬるい事言ってられるような状況では無かったため、三矢研究を始め『国家総動員態勢』の構築を前提とした作戦計画なんかもあったみたいですが、アレは防衛政策に対して影響を与えたモノでは無いことになっているためココでは詳しく触れません。
防衛力整備計画
さて、1976年に皆さんおなじみ「防衛計画の大綱」が整備されます。それまでの『具体的施策』は第1次~第4次防衛力整備計画という、今で言うと中期防と大綱がガッチャンコしたような超具体的な計画によって実行されていき、自衛隊は段々とその実力を増していきました。
それぞれの計画についての大体を紹介すると以下のようになります。
一次防
陸……6個管区隊、4個混成団、定員180,000人の整備
海……艦艇約124,000トン、航空機約200機の整備
空……飛行部隊33個隊、航空機約1300機の整備
コレが最新鋭戦闘機だった時代と言えば時代感が伝わるでしょうか。
二次防
陸……定員180,000人、予備自衛官30,000人の整備
海……艦艇約140,000トンの整備、P-2対潜哨戒機のライセンス生産
空……地対空誘導弾部隊4個隊、航空機約1,000機の整備
戦後第一世代戦車、61式戦車が配備され始めたのがこの時期です。
三次防
陸……戦車、装甲車、対空機関砲、対戦車ミサイル等各種装備の整備
海……DDH2隻、DDG1隻、他15隻、SS5隻他航空機等の整備
空……ナイキJ装備部隊4個の整備、次期戦闘機、輸送機、練習機の整備
第四次防衛力整備計画になって、防衛政策に転機が訪れます。
情勢判断と防衛の構想が新たに防衛力整備計画に内蔵されたのです。
情勢判断では「緊張緩和がされつつあるが、極東地域に於いては米ソ中の利害が複雑に絡み合っている、全面戦争の危険性は低下しているが時期場所を限定した武力衝突は有り得る情勢」という結論ありきの毒にも薬にもならない判断がなされました。
そのような判断の下、日本は『通常兵器による局地戦以下の侵略に最も有効に対処』出来る防衛力の整備と、具体的に『間接侵略と小規模直接侵略に対しては、独力で、それ以上は米国の協力を得て排除する』という方針が明記されました。(もちろん核抑止は米国に丸投げする事にしました。)
尚ちむどんどんを見ている方なら分かると思いますが、この時期に沖縄が本土復帰を果たしました。(1972年)
四次防
陸……定員180,000人、予備自衛官39,000人体制の確立他74式戦車等の整備
海……DDH2隻、DDG1隻、他13隻、SS3隻他の整備
空……F-4EJ戦闘機46機の整備、RF-4E偵察機14機他の整備
基盤的防衛力構想~独立国として最低限度の力~
51大綱の制定
さて、これまで見てきて分かる通り、一次防~三次防では『何故その装備を買うのか』というのを明確にしておらず、四次防であっても抽象的な毒にも薬にもならない情勢判断と称する文章を根拠にしている等の持病を抱えており、案の定国会でボッコボコにされた為、以降政府の考えをできる限り具体的に明示する事にしました。
つまり我々は、防衛政策の考え方やらについてコレ以降明快に見ることが出来るのです。
そして所要防衛力には大きな欠陥がありました。
ソ連が迫真の大軍拡をやりまくっていた為、『小規模かつ限定的な侵略』の規模がどんどん膨れ上がり、正面装備がいつまで経っても揃わないという状況に陥った結果、政府の政策文書に『全体としての能力は意外に低い水準にとどまるのではないかと憂慮される(原文ママ)』って書かれるぐらいには補給体制や廠舎といった後方がボロッボロだったのです。今もじゃねぇか。
この2つの持病を何とかするとしても、防衛力は内外の情勢を判断しなければなりません。
国内に目を向けるとオイルショックで高度経済成長が止まり、人口推移にヤバさが覗き始め、市民団体がクッソうるさいという三重苦を背負っておりました。
一方で外に目を向けると、米ソは相互確証破壊とかいう理性に担保された狂気によって直接の軍事衝突は多分しないという判断がなされました。ここは四次防と殆ど一緒です。
これらの問題を何とかする為に考案されたのが基盤的防衛力構想です。51大綱を引用すると、以下のようなものとなります。
基盤的防衛力構想では、所要防衛力構想であった「小規模かつ限定的な侵略」という抽象的概念をより具体的に定義しました。
基盤的防衛力構想で言う「限定的かつ小規模な侵略」は、「脅威」とは、予想される相手国の「意図」と「能力」によって構成されるという定義に基づき『本格的な侵略戦争の決断なんて、実際問題として国際情勢や国際政治構造とからみ合ってるからその可能性は限定されてるよね』という立場にありました。
この結果、『じゃあ我が国が整備すべき防衛力は、軍隊の体勢を殆ど変えずに奇襲的に行われる侵略を排除できて、警戒態勢を取ることが出来る量で十分だよね』という事で、防衛力に対して量的な歯止めを掛ける役割を果たしたのです。
本格侵略に対しては米国の協力に加えて、『本格侵略に発展しそうな情勢になったらそれに対応できるような体勢を整備しよう』という、今から見るとクッソ呑気に思える考え方を採用していました。
つまり基盤的防衛力とは言ってしまえば『ワンチャンあると思わせない為に必要な抑止力を維持する為の最低限度の防衛力』を整備しておいて、ヤバくなったら変えようという『殆ど戦うことを想定していない』政策だったのです。基盤的防衛力構想の下では、自衛隊は『存在による抑止』が任務だったという訳ですね。
尚当然防衛庁もこの問題点は把握していましたが、先述の『持病』が悪化してそれどころでは無かった為、これの導入を強行する事にしました。
こんな感じだったので実際に侵略事態が生起した場合には北海道に押し寄せるソ連地上軍の津波を死ぬ気で遅滞して米軍の来援を待つとかいう他力本願もいいトコの政策だったので、コレのまま新冷戦に突入しなかった事は幸運と言えましょう。
参考情報:Mig-25事件
この政策を作ってさぁ閣議決定に回すぞと大詰めを迎えていた1976年(昭和51年)9月6日、突如函館空港にソ連航空宇宙軍所属のMig-25が飛来、20分後に駆けつけた警察官によって搭乗員の身柄が確保されるという事件が起こりました。これをMig-25事件、或いはベレンコ中尉亡命事件と言います。
この件については防衛庁が『防衛庁の管轄は領空侵犯機であり、着陸後は不正出入国にあたるから法務省が所轄すべき』と主張し、法務省が『パイロットはけん銃を所持していたので警察庁が所轄すべき』と主張し、外務省は『パイロットは亡命希望者だからこれは外務省が所轄する』とベレンコ中尉をアメリカに押し付け、警察庁は『Mig-25は遺失物法によって遺失物として扱われる』大蔵省は『Mig-25は密輸品である為ウチの関税局』……という超高速たらい回しの結果、なんとか穏便に事は収まりました。
いやコレ核攻撃機だったらどないすんねん。
この件で自衛隊は低空侵入してきたMig-25を失探して領土侵犯を許すという大失態を世間に露呈する事になり、当然国会でボッコボコにされました。
自衛隊としては次善の策として機体を破壊されないように一生懸命頑張ったりしたのですが、ぶっちゃけ後の祭りです。国会の外でも四方八方からボッコボコにされました。
防衛政策的には早期警戒機が導入されるキッカケになったり、F-4EJにルックダウン能力を付与したりといった機会になりました。そんな訳で、この大事件は現在でも航空自衛隊に爪痕を残していたりするのです。
冷戦の終結~基盤的防衛力の整備がやっと終わった位で無くなったソ連っていうクソデケェ国~
51大綱の下、53中業 (1980)56中業 (1983)59中業 (1986)という3つの中期業務見積もりと、61中期防 (1986)03中期防 (1991)という2つの中期防衛力整備計画が施工され、バブル崩壊やら何やらを乗り越え、今の自衛隊の基礎を作っていきました。
各中期防の内容についてはここでは取り扱いません。
そんな『基盤的防衛力構想』でやりたかった防衛力整備がやっと終わったと思った矢先、皆さんご存知の通り、ソ連が1991年12月26日に崩壊し、その歴史に幕を下ろしました。
人類が滅亡する心配も去り、北海道がソ連地上軍に蹂躙される事も心配しなくて良くなりました。良かった良かった。これで一安心……
とは日本はいきませんでした。
ここで前回の内容を思い出して頂きたいのですが日本は北朝鮮、中国、ソ連という『三匹の赤龍』と対峙しており、ソ連崩壊は飽くまでその中の最強がくたばっただけなのです。
そして冷戦終結から現在に至るまで、残った二匹と対峙する前進基地としての役割を果たすことになるのですが、それはまた次回の話。
次回↓
90年代の自衛隊~キナ臭いけど平和だった時代~|botamoti・ω・記念称号民間牡丹餅設計工作局(CV.ゆっくり魔理沙(Softalk:女性2))|note
おわりに
ここまでお読み頂きましてありがとうございました。このnoteは『自衛隊』について皆様の理解を深めて頂くため大体三部作でお送りする予定でしたが、長くなったので四部作でお送りします。(自衛隊の誕生→冷戦期の自衛隊(イマココ)→90年代の自衛隊→自衛隊の現在)でお送りする予定です。続きは気長にお待ち下さい。
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