定年後 306 日目 写真の余白は「非現実感レイヤー」かも?
オンラインサロンMAGNETでは、月に一回「まぐすた」という勉強会が開かれている。
講師はサロンのメンバーの中で知識や技術を持っている方が交代で担当し、それぞれ自分の専門分野を解説してくれる。
今月は「より良い構図を得るために」というタイトルで、写真の構図についてプロカメラマンのTさんの講義だった。
Tさんの講義の中で印象に残ったことのひとつが、写真はレンズが広角だと主観的で生々しくなり、望遠になると客観的でのぞき見ているようになる、というもの。
前々から漠然と感じていたけど、講義を聞いてはじめて言葉として納得できた気がした。
以前はコンパクトカメラをいつも腰にぶら下げていて、「あっ」と思った3秒後にはシャッターを切るような撮り方をしていた。基本的に記録写真的なものが多く、5W1Hが収まるような撮り方にこだわっていた。
報道写真にも近いかもね。
レンズは広角が中心で、特に28mmの画角をよく使った。
Tさんの話を聞いて、リアリティを求めて広角を好んでいたのだなと納得した。
写真をディスプレイで見ることがあたり前になってから、写真は流動的になった。
撮影者がどんなに色を作り込んでも、見る側のモニタによっていくらでも変化してしまう。
大きさもスマホからプロジェクターまで、見る側が選べてしまう。
色味はもちろんだけど、写真は大きさが変わったら意味(メッセージ)も変わってしまうと思う。
紙焼きで写真を見せていた時代には、写真をどの大きさで見せるかは作り手側が決めることができた。
印画紙の大きさは六切(203×254mm)で見せたいのか、八切(155×206mm)で見せたいのか、作者がサイズを決めてプリントすれば鑑賞者は必ずその大きさで見ることしかできなかった。
メッセージを固定しやすかった。
同じようなことが写真の余白についても言えるのではないかと思っていた。ここでの余白は写真の外側に縁取られる白い部分のことね。
写真は余白がつくと弱くなる。
自分の経験では、同じ写真を同じサイズでプリントしたとしても、その周りに余白を追加(写真自体のサイズは変えずに余白の分だけ紙を大きくするという意味)したものと、していないものとでは、写真のメッセージが変わってくると感じていた。
これは素人の個人的な見解なので、そうではないという方がいても全く否定するものではないけど。というか、ほかの考え方もぜひ聞きたい。
余白のない状態で見せるのならば、ファインダーで覗いたときの構図のままでいいが、余白をつける前提なら少しきつい表現になるようにした方がいいように思う。
なぜ伝わるメッセージが変わるのか、これも言葉にして整理することができずにいたけど、Tさんの講義を聞いて考えが進んだ。
写真を縁取りのない状態で全面に配置した場合は、見る側は素の写真として写っているものをダイレクトに受け止めているということかも知れない。
周りに(白い)余白ができると、ひとつ写真が向こう側にいってしまい、写真に対して距離感が増し、リアリティが減るということかも知れない。
これは広角レンズの画角のままなのに、写真の特性が望遠に少し近づくということになる。
最近はインスタントカメラから取り出した写真のような縁取り付きのものが、白い余白の中に置かれたレイアウトの写真を見ることがある。(何かのソフトの定番処理ですか?)
こうなってくると写真が写っている台紙の枠が付いている段階でひとつ隔たりが生じ、さらにその周りに余白があることで隔たりが追加されているように感じる。
広角レンズで写されたものでも、より一層遠くのものに感じる。
余白は「非現実感のレイヤー」だということかも。
ひとつ余白を作るたびに階層が向こう側に行って、画角は変わらずとも生々しさや主観性は減っていく。
講義を聞きながらそんなことを感じたけれど、もうあまり関係ないことなのかもしれないとも思う。
プリントした状態で人に写真を見せることはほとんどなくなり、写真の大きさと同様に余白の有無も鑑賞者の環境によって変化してしまう。
写真はサイズや「非現実感レイヤー」に影響されない表現の耐性が必要になったということかも知れない。
一昨年、久々に写真展に行ったとき、ちょっと驚きがあった。
藤里一郎さんの「OneDay」という写真展で、モデルは夏目響さん。
北村写真機店のこぢんまりとしたブースの壁面にたくさんの写真が展示されていたが、「余白」という概念を感じることはできず、プリントした写真であっても余白は意味を持たないようになったのかと感じた。
多分、自分が理解できず、その先が見えていないだけだろうけど。
最後まで読んでいただけた方は「定年405日前 画面の大きさが意味を変える」もどうぞ 。^^
2023 / 1 / 31