三浦惣領の三浦義澄様の指示に皆が従わず鎌倉殿から従うようにとのお言葉があったといった記述を発見いたしました
おお、岡崎のじっちゃんと、頼朝様の「義澄の言う事聞きなさい」宣言な! 良いところに目をつけたな!
まず、岡崎のじっちゃんが頼朝様の暗殺を企んだのは「ドラマの創作」なんだ。 そしてオレが思うところ、史実の岡崎のじっちゃんが、頼朝様へ逆心を持つ事は「有り得ない」と断言させてもらう。
というのを前提にすると、なんでドラマのじっちゃんが謀反を企てたのかはまぁ「ストーリーの都合」だな。
そして『吾妻鏡』の「義澄の言う事を聞かない三浦党」の記事、
歴史研究者の間では和田義盛や、佐原義連叔父貴の事だとよく言われているが、オレはそうは思わない。
和田義盛と三浦義澄
義盛は侍所別当として、三浦党ではあるけれど独立した1つの勢力ではあるし、頼朝様や幕府もまぁ、そう認識してたんじゃないかなぁ。
そして和田合戦のこともあるから、三浦VS和田の図式はわかりやすい。
でも……地元の伝承では、父上の菩提寺を建てたのは和田義盛なんだ。
もしも義盛が父上の言う事を聞かないけど、頼朝様に言われてしぶしぶ和解したってんなら、頼朝様の死後まで仲良いふりするこたぁないと思うんだ。
多分だけど、義盛はオレの父上のこと、実の父のように慕ってたと思うよ。
義盛は元服するかしないかの頃に実の父を亡くしているし、母親は遊女だし、世間で言われるほど三浦の正統な後継者というわけじゃない。それでも和田義盛として顔役でいられたのは、父上のおかげ……なのかもしれない。
佐原義連と三浦義澄
義連叔父貴に至っては、生前は「三浦十郎義連」を名乗っていたし、年齢は最低でも二回り……三回り……ぐらいは余裕で離れている。
やっぱり後の歴史の事もあって、三浦VS佐原で考えがちだけど、少なくとも叔父貴の立場だったらそんな兄貴に逆らおうとは考えずらいんじゃないかな……。
それに宝治合戦の時に、三浦方についた佐原一族だっていたよ。
叔父貴の本職は御家人というより、海運業だ。頼朝様のお気に入りではあったけど、御家人としての出世欲はそんな無かったんじゃないかな~。
義澄に従わない三浦党とは誰か
というわけで、父上に従わない三浦党とは誰か、ということで、岡崎のじっちゃんに目をつけたマシュマロ主は慧眼だぞ!
この義澄の言う事聞きなさい事件は1193年の1月。曾我兄弟の事件は同年5月。そして岡崎のじっちゃんは8月に出家しているんだ。
出家の理由は「年を取ったから」と書かれているが、もしかしたら曽我兄弟となんらかの関りがあって、責任を感じて出家……というセンも捨てきれない。
じっちゃんと同時に出家した大庭景義は1195年に「頼朝公の旗揚げより大功ある身ながら疑いをかけられ鎌倉を追われ」と手紙を書いて許されている。
じっちゃんの方はと言うと、1195年の2回目の上洛の時もついてきてるし、頼朝様が生きている頃は元気にやってるんだよな~。
ちなみに、頼朝様が亡くなった後、晩年の岡崎のじっちゃんは窮して、尼御台に訴えている。
まぁ、この時点で90近いじいさんだし……。わりとこう……なんていうか。歳をとって手が付けられなくなる感じ、現代もよくあると思う……。 身内の面倒見が良い兄上が見放してるぐらいだし……。察して欲しい。