私が知らない方の「理解」
私にはより親密になりたい相手が居る。その相手に自分のことをちゃんと理解して欲しいと言われたので、理解するための情報を得るために様々な質問をしたら、その相手の気分を害してしまった。
私は「理解」することを求められたので「理解」しようとしたのにどうして上手くいかないのだろうか、いやそもそも「相手を理解する」というのはどういうことなのだろう。もしかしたら私はまったく「理解」することについて「理解」していないのかもしれない。私は「理解」について考えてみることにした。
相手を理解することを必要とするシュチュエーションをいくつか例示してみよう。
自分に敵対的な相手が居る場合、自分に危害を加えてくる可能性のある相手の行動原理等を知るということは、危険や無用な争いを避けたりする上で非常に重要なことだ。
相手を理解することは自分の利益を害することから身を守るために必要になる。
私の人生においてはこのタイプの「相手を理解する」ことが一番多かった。
次はその対象の相手から何か利益を引き出したい場合、商売とか悪い例で言えば詐欺のターゲットについて、相手を理解しなければその行動を上手く誘導したりして利益を得ることが難しいだろう。
相手を理解する動機は自分が利益を得るためだ。
次は「相手を理解する」ことそれ自体を目的とする場合、つまり相手を研究や興味の対象として、相手にまつわる情報を蒐集する。
私がそのより親密になりたい相手に対して持つ「理解」したい動機はこれだと思う。
最後に挙げるのは、相手を思い遣りたい気持ちから理解しようとする場合、例えば相手に何かをプレゼントして喜んで欲しいから好みを調査する。
相手になるべく快適な状態で居てもらって不快を避けようとするなら、相手が何を快として不快とするのかをよく知らなければならない。
その親密になりたい相手の言う「理解」されたいという言葉の意味は、もしかして自分のカルトクイズに全問正答して欲しいという意味では決してなくて、
自分を思い遣る気持ちを持って、その気持ちを動機として自分のことをよく知って、ちゃんと理解しようとして欲しいという意味ではないか。
本当に重要なのは相手についての情報ではなく思い遣る気持ちであって、ましてや相手に関する情報を得るために尋問するのではなく、相手が尋問されるのは嫌だろうなと考えて尋問しないことこそが相手を理解するということなのだろう。
その「理解」が自分に対する思い遣りから発したものではないのなら、もしそれが当たっていたとしても拒絶されるだろう。
私はその相手を思い遣り幸福を願う気持ちは持っているのだけれど、それとは別個に興味関心からその相手についての情報を蒐集したい欲求もある。
その二つが統合されたものではないから、私が相手に対して持つ「理解」は相手を不快にしてしまうのではないだろうか。