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安楽死はなぜ受け入れがたいのか

私は安楽死賛成派であるけど、それを法制化するとなると難しいことは理解している。お気持ちの問題は避けて通れないからだ。

自分の身体のお世話をできなくなったりぼけてしまったらもう生きていたくないし、自分の知ってる人間でもそういう人は多い。右であれ左であれ、戦後民主主義教育を内面化している人々だから、身体の自己決定権にそれなりにこだわりがあるようだ。しかし殺人と紙一重の積極的安楽死や自殺幇助はお命至上主義の社会ではいろいろ難しい。

というようなことをこないだ教えてもらった起業予定の女子大生のブログ記事を読みながら考えるのであった。

煽る人の中には、「もう日本は高齢化しきっていて未来がない、日本から脱出したほうがいい」なんてことを言う人もいる。それが真に問題だと思うなら、長寿化への抜本的“対策”として、姥捨てでも安楽死でも、長寿を禁止すれば社会は若返るだろう――現実にはそうはしないだろう。老いの苦痛と死の苦痛で、いまだ後者のほうが大きいのは変わりあるまい

(太字は引用者)
個々人においては長寿の苦痛が死の苦痛より大きいなんてことはいくらでもあると思うが、やはり社会全体としては後者のほうが大きいだろう。人はたくさん死人がでることに耐えられない。これは進化心理学的に簡単に説明できることだろう、知らんけど。

日本では新型コロナで2000人か3000人死んでいて、それが毎日逐一報道されていた、そんなん寿命やろみたいなのも含めて。サピエンスの脳はまとまった数の人間の死の情報に相当な苦痛を感じるようで、恐怖を煽るには十分だった。全部ひっくるめて日本では130万人毎年死んでいるのに、そんなことは報道されないので気にもとめない。知らぬが仏とはよくいったものだ。

こうした他人の死がもたらす苦痛や恐怖は、死が自分にもやってくるのではないかという連想からくるものだろうし、誰であれ死は可能な限り遠ざけられるべきという発想につながる。

その可能な限りの程度がいきすぎると、それはバグと呼ばれることになる。誰かを死なせないためには、他の誰かの生活を死なない程度に犠牲にすることが許容されるという非常に馬鹿げた事態になる。昔の偉い人が「奴隷は生かさず殺さず」という趣旨のことを言ったらしいが、現代においても繰り返されるわけである。

このたびのコロナ禍ではっきりしたのは、日本でもどこでもほとんどの政府は、長寿がもたらす負の効用よりも、死の苦痛を重くみるほかなかったということだ。自粛派や多くの医療従事者はこの決定に従ったし、反自粛派は抗議した。しかし個々人の行動がなんであれ、お命至上主義が変わるわけではない。

宗教が機能不全になったいま負の連鎖は続いていく見込みである。この絶望を次の世代にも渡していくことになるのだ。断ち切るために必要なものはなんだろうか。

かつて畏友が「私達の世代は団塊世代と刺し違えるという予感がある」といった。年々その言葉のリアリティが増している。

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