飲茶の『最強!のニーチェ』読んだぜ
先日、高山樗牛がニーチェに関心をもっていたということで私もニーチェについて学ぶ必要があると感じた。
日本に先んじてはいたものの、遅れてきた帝国主義国家であるドイツで、性急に近代化する時代に登場した偉大な思想家に関心をもつのは自然なことである。
いちおう私はニーチェの著作は何冊か読んでいるし、学部では文学部の教官と二人っきりで『悲劇の誕生』の原書を読むとかいうこともしていた。
それでもちゃんと理解できているとは思えず、基本から学ぶ必要があった。
というわけで買ったのがこれ。
同じ著者の東洋哲学の入門書がわかりやすかったからである。
そしてニーチェの本は薄くて、行間が広くて読みやすかった。入門書は字が少ないことが重要である。
ドイツの近代化についてはあまり書いていなかったけど、自然科学の発達で宗教が急速に力を失っていった背景についてはちゃんと述べられている。「神は死んだ」である。
近代科学は徹底的に要素に還元していくわけであるから、意味とか価値がどんどんなくなっていってニヒリズムにおちいる。「末人」である。
しかし人には「力への意志」があるから、自らの存在を積極的に肯定して、「超人」として生きることもできる。シーシュポスのごとく永劫回帰を強いられていても、いま、ここに主体的に価値を見出すことは可能なはずだ。「大いなる正午」だ。
ニーチェの最大の魅力はここにあるだろう。既存の価値観は儚いものであるが、だからこそ自ら価値を選び直すことができる。
いま、ここというと仏教を想起させるわけであるが、著者は呼吸瞑想っぽいことに言及しているのもまた興味深い。
ニーチェはユダヤ教やキリスト教を奴隷道徳と罵倒してやまなかったのであるが、奴隷道徳はそれらに限ったことではないよね。私見では、現今の自粛などというのは奴隷道徳そのものである。全くディオニュソス的ではない。
という感じで凄くシンプルかつ順序立てて説明してあり、著者の頭の良さを感じさせる内容だった。もちろんニーチェの考えていたことがこんなにシンプルなわけないのだが、入門書としては必要十分だろう。
本書を読むまで知らなかったのだが、飲茶氏は吃音であったという。それは50音表の一部が塗りつぶされているような感覚で、塗りつぶされていない音で発話を始めないと吃ってしまうのである。だから常に言葉を言い換える作業が必要だった。想像できないプレッシャーだ。
そんな高校生のおりに、たまたま隣の席になった耳の聞こえの悪い女子に惚れてしまったという。難聴と吃音というコミュニケーションを取りにくい者同士で劣等感を刺激しない相手だったからかもしれない。彼女は聞こえが悪いために本ばかり読んでいて、それが哲学書だったらしい。これが著者が哲学にのめりこんでいったきっかけだった。たいへん好ましいエピソードである。
吃音で悩んでいた著者にとって、ニーチェの思想は大いなる救いであったろう。そして何冊もの著作をものにしている。人生はわからないものだ。
なお版元の水王舎というのは、元予備校講師の出口汪氏が創業者ということだ。偉大なる曽祖父からとったのであろう。