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山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』はまあまあイケナイ本だった
高名な社会心理学社である山岸俊男氏の『安心社会から信頼社会へ』ようやっと読んだ。
この本は、私が敬愛してやまない白饅頭ことテラケイ氏がおすすめされていたので購入したのだが、これまた4ヶ月以上も放置していたのだった。。。
本書は信頼に関する様々な研究を紹介していくものだが、テラケイ氏が言うようにそれ以上いけないことがたくさん書いてあって口角が上がりっぱなしであった。
例えば、他人を信じやすい人(高信頼者)は浅はかで騙されやすく、容易に他人を信用しない人(低信頼者)は思慮深いといったイメージは完全に誤りである。高信頼者は低信頼者にくらべて高学歴であり、情報に敏感で、だまされにくいし、周囲からも信頼されやすい、他者の人間性を検知する能力が高いなどなど。育ちの良い人間はパーソナリティにおいても優れているという実例がたくさん思い浮かんだ。
まあ疑り深い人間は騙されやすいのは医療従事者には常識で、インチキ医療にひっかかってしまうのはだいたいそういう人である。あるいは、疑い深い女性ほどヤリチンに引っかかりがちなのも一部界隈では周知の事実であろう。
とすると本人の資質とは関係ないところで不運な経験があったために他者を信頼しづらくなってしまい、さらに囚人のジレンマ的な不幸を招きがちという悲しい人物像が思い浮かんでしまう。大きな果実を手にするためにはまず他者を信頼して協力関係を構築しなければいけないが、、、まあこれくらいにしておこう。
タイトルにある安心と信頼については説明が必要だろう。著者によると、安心とは能力的にあるいは技術的に信用できるという意味で、信頼とはそれらにかかわりなく信用するということだ。わかりやすくいうと、自分のパートナーについて、浮気する能力がないから信用できるのが安心で、浮気できるにもかかわらず浮気はしないと信じるのが信頼だ。
これは情報の非対称性が大きい場合について重要な区別である。商取引においてパチもんつかまされる可能性がないのは安心な状態で、取引コストをおさえることができる。パチもんリスクが大きいと、売り手は信頼を売るために様々なコストをかけないといけないし、買い手は調査などにコストをかけることになる。
本書では安心と信頼について日米比較をしている。日本は相対的に安心な社会なので取引コストは低い。アメリカは安心要素が少ないので、信頼を得るのに適応した行動を取る必要がある。そのために日本は集団主義的、アメリカは個人主義的と捉えられることになる。つまり日本では集団に適応する行動をすることで低コストの取引を享受できるが、それは同調圧力というデメリットもあるというわけだ。
もちろん日本は集団主義的、アメリカは個人主義的というステロタイプには注意が必要で、著者もそのことに自覚的でルース・ベネディクトを引用している。安心と信頼という区別を持ち込むことで、ベネディクトの「恥の文化」と「罪の文化」も理解しやすくなったのは個人的には目からウロコであった。
なお日本が集団主義的かどうかについては下記の本が詳しいので参照されるとよいだろう。
日本が安心な社会で取引コストが低いことは、先進国の中でなぜ日本だけが長期デフレーションに陥っているかの一つの説明になるとも思われた。パチもんリスクが無視できるとなれば、できるだけ安く財を購入するインセンティブになる。少々高くても信頼できる〇〇さんから買おうとはならない。
また不確実性の高い商品の典型である労働もそうだろう。比較的均質な集団であるなら低いコストで人材を調達できる。そうやって賃金が低く抑えられるなら物価が上がるわけないのである。
最後に男女差別についていくらか記載がある。女性の行動は男女差別のもとで適応しているにすぎないと述べている。そんなことはなくて、男女の行動の違いに適応して社会の仕組みや統計的差別が存在しているのはいまや常識であるが、本書が出版されたのは1999年である。20年ちょっと前に(長期デフレが始まったころだ)すでにこれだけのことがわかっていたのだなあと自分の不明を恥じるのであった。
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