5月病やってる場合ではない

5月が終わりに近づいており、五月病の季節も終わりなのだが、心身の疲れが取れにくくなっているのは加齢のせいであって、皐月のせいではないのだ。

肉体的な衰えを少しずつ体感するようになり、身体性により強い関心が向かうようになった。

この本は身体動作の基本をなるべく簡単な指標でもって言語化しようとしたたものである。

身体が言語におよぼす影響を第二言語を学習していると意識することがあるが、言語もまた身体性に影響する。

どのように外界を認知するかが動作に影響することはさまざまな研究で証明されている。
例えばバスケットボールのシュートにおいて、腕よりもリングを意識することで成功率が高まるとか。


そうしたことに関して関心はあるのだが、今さらスポーツやるのもなあという気はしている。

消化試合になってしまった残りの人生どうするか。

というわけでまたこんな意識高そうな本を読んだりもする。

50を過ぎたら理解されようと思わないことが大事らしい。理解されたいという欲求は承認欲求のなかでもかなり厄介な部類である。これを捨て去ることが大事というのはよくわかる。

ただ著者は承認欲求を否定しつつ、アドラーのいう共同体感覚とかエリクセンの世代継承性を強調している。それもある意味、承認欲求じゃねえのと思わなくもない。

一年ほど前にも似たようなこと書いてた。。。成長してない。

でもフランクルだかユングだかが、体力や記憶力が衰えても、精神は高みへと昇っていけるのだと言ってたらしいので、私ももう少しだけがんばっていこうと思ったのだ。

ちなみにこの本が気になった人はこちらの動画を見るといいだろう。


そういうわけで中年の危機とは終わりなき五月病を生きることだと知ったのであった。

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はむっち@ケンブリッジ英検
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