忘年会的なサムシング
今年も残すところあと10日ほどとなり本格的な冬の季節に突入しつつある。そろそろダウンジャケットださないといけないなあなどと思うが、家と職場の往復の時間さえ耐えればいい生活なのでめんどくさくもある。
しかし全く外出しないのも不健全であるから、政府が呼びかけていた新型コロナ感染対策「勝負の3週間」が明けたこともあり、本日京都市内某所にて友人たちと会食したのであった。
先日、言葉の身体性とか空間的ひろがりといったことに言及した。
それらは書き言葉よりも話し言葉において顕著であり、よってメールやチャットよりも会話でこそ威力を発揮する。
新型コロナウイルス感染拡大にともない、Web会議、Web学会、オンライン飲み会などを経験した。こういったテレプレゼンスは、テキストだけのやりとりよりもはるかに言葉の身体性をあらわにするし、家や職場から移動しなくてよいなどのメリットも大きい。
しかしインターネット黎明期からテレプレゼンスがコミュニケーションのあり方を根本的に変える可能性は議論されているものの、そんなことはいまだに実現していない。
眼前に人間がいること、声がダイレクトに脳に伝わること、これらは言葉の意味そのものだけではないなにかを伝えてくれる。こうしたことを機械学習で再現するのは相当な時間を要するであろう。
特に日本語のような書き言葉と話し言葉の乖離が大きい言語、他者の介入へ開かれている言語ではかなりの困難を伴うものと思われる。ハイコンテクストというやつである。
というようなことを久しぶりにリアルな会食を体験して考えたのであった。
美味いメシをつつきながら、話題は家父長制、夫婦別姓、メンヘラといったことから父殺しへと発展した。
父殺しは神話などではありふれたテーマである。また、ただいま絶賛クライマックスを迎えているNHK大河ドラマ「麒麟が来る」でもテーマのひとつであった、観てないけど。
かつては父殺しにはなんと親不孝なとか、アホな父親はこうなってしまうのかとか小学生並の感想を持つことしかなかった。
しかし自分を殺せるほどの息子を持てたことは誇りに思うべきではないかという指摘を受けて、なるほどなと思った次第である。
さらにそのためには殺されるに値する父親でなくてはならないともいえる。だから学ぶことをやめてはならないし、倒すべき父であり続けなくてはならないと決意を新たにした。
結局のところ、実存とは、そのような関係の絶対性に強いられたことであっても主体的に引き受けることにしか生じえない。シーシュポスの神話の意味をこの歳になってようやく理解しつつあるのであった。