『死ぬ作法 死ぬ技術』読んだ
なんとなく西部邁の本を読まなくてはならない気がして
そこで手に取ったのがこれである。
2009年の出版である。
西部だけでなく、久坂部羊、鎌田実などなどがエッセイを寄せている。ちなみに完全自殺マニュアル的な死ぬ技術は書いていない。心構えのようなものが書かれている。
西部のエッセイでは、いつものように、人間が地球上で我が物顔で振る舞うことを許されているのは、精神を持つからということになっているのだから、精神の働きが失われたら死ぬべきだということが主張されている。
そして自分や周囲を納得させうる「良い物語」が必要であるとも主張している。悪く言えば自己満足、良く言えば矜持ということになろうか。自他が納得できる形で死ぬことこそ自律ではないかと私も思わざるをえない。ただ死にたくないという状態が終焉した結果としての死は自律とは言い難いのではなかろうか。たぶん。少なくとも、生命は自分のものだから自分で決めるという態度と整合的なのがいずれかは明らかであろう。
山村基毅氏のエッセイも良かった。ここで紹介されている哲学者須原一秀が面白い。彼はかつて自死した偉人を研究し自裁した。いつか読んでみようと思う。
中川恵一医師の『現在を愛せなくなった日本人へ』エッセイがなかなか興味深かった。
中川氏は、日本人は「現在」ではなく未来しか愛せなくなったといっているが、これは現世という意味であろう。現世における未来しか愛せないというのは生命至上主義であり、現世を超えた未来をリアルに想像できないということだ。私は、近い未来しかないなら現在を愛せなくなるのは自然なことじゃないかと思う。
他にも佐藤優の、遺書は書かない、死者が生者を縛るのはよろしくないという考え方とか、ほほうとなる部分が多々あった。
最後に乳がんの後、胆管癌を患った中島梓氏のエッセイであーってなった箇所を引用しておこう。彼女は胆管癌で膵頭十二指腸切除術を受けたのだが、これは乳がんの手術とは根本的に異なることを体感する。
今回は目一杯「不自然なことをしたぞ!」と主張しているような感じです。
まあそれはいいとして、その主治医があーあって感じなのであった。
主治医は、肝、胆、膵臓の専門家で「乳がんなど、この手術に比べたら手術とも言えない」と言っていましたが、後遺症の問題も含め、現実にその通りでした。
こういうことを言うのが肝胆膵の医者だよなって思ってしまったのであった。