主体とは行為や要因の中にあるのではない
先日のこの記事に関して、萩野昇先生から示唆に富むご指摘をいただいた。
たしかに、なんらかの行動があったのちに理由が後から付け足されることは多いのに、現代は理由があって行動がなされるはずだという信念が強すぎると感じる。
現実には、過去の蓄積たるしがらみによって選択の余地などないことがほとんどだ。あるいはお気持ちで行動してしまうこともあろうが、お気持ちだって過去の経験の蓄積から湧いてくるものだ。
というようなことを考え出すと、じゃあ人間の意思決定に意味は無いのか、自由な選択などありえないのかという疑問に至る。主観的な次元では、やむなくやったのだと感ずることもあれば、自らの主体的判断によって選んだと意識されることもある。
AEDに話を戻す。1年前の萩野先生の記事、あまりピンと来ていなかったのだが、昨日ようやく意味がわかったんだよね。
躊躇いなくAEDを使用して救命したら、救命対象の人物にセクハラで訴えられた。あなたは決然としてそのクソみたいな人物を救命したのだから、あなたは倫理的に正しい行いをした。セクハラと言われるのが嫌でAEDを使用しなかった。あなたは決然として過度のポリコレに異を唱えたのだから、あなたは倫理的に正しい行いをした。それでいいじゃない
後半はともかく、前半の意味が今までわかってなかった。
道端で倒れている女性を見て、胸部を大きく露出させて救命処置を行ったと。迅速かつ的確な処置を行いたいなら極めて合理的だが、見てみぬふりをして立ち去り、勉強や読書やナンパでもしていたほうが合理的だったかもしれない。
なにが合理的かは誰にもわからないが、あなたはやったのだ。それはおそらく理性的な判断というよりも、お気持ちという構造に強いられてやったことだろう。いや、なんらかの合理的判断によって選択したかどうかは問題じゃないというべきか。
倫理的に正しい決然たる行為によって社会的に抹殺されたとしても、自らの意志で行ったからそれでよかったのだと言えるかどうか。事後的に、クソみたいな人物かもしれなかったが自らの意志で助けたのだと言えるかどうか。
つまり、主体とは事後的に見出されるものだってことだ。行為の前にも主体はあったのかもしれないが、行為の前に戻って過去を変えることはできない。主体とは常に遅れてやってくるのだ。
過去のしがらみやお気持ちは変えられないが、自らの意志で選択したのだと考えることで、未来に良い影響を与えることはできる。そのために後から理由を創造することもあるだろう。
嬉しくない出来事があったときに、自分は被害者だという感情が湧いてくるのは自然なことだ。しかし自らの選択の結果だと考えるのが大人というものだ。そのほうが前向きに生きやすい。
前向きに生きたからなんだというのか、お気持ち全開で生きて周囲の配慮を強奪するほうが合理的な立場の人もいるだろう。たしかに大人であるために我々は生きているのではないからね。
現代は特に被害者ポジションのほうが得られるものが大きいだろう。行動した後に、被害者たる理由を探したくもなる。
でも私は、自らの意思で行動したのだと言える人と仲良くしたいと思うのであった。