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【連作短編ホラー】呪いの言葉がトリガー最終章『記憶にございません』5

木曜日1

 眠りから覚めて目を開けると、そこには〈もう一人の私〉の顔があった。
 いつものあの、不気味で嫌味たらしい、意地の悪いにやけ顔を浮かべながら、寝ている私の顔を覗き込んでいた。
 なぜ? どうして? 意味が分からなかった。
 昨日セリナに狐を祓ってもらったというのに……。
「あっ、あっ、あああああああああああ!」
 あまりの事に私は喉を思い切り潰し、詰まった泥を無理矢理に抉り取り穴を開けるような、ざらついた悲鳴を上げた。
 激しい絶望感に嗚咽が漏れそうになる。涙が自然と頬を伝い、半開きになった口の中へと流れ込んだ。

「おいおいおい。どうしちゃったんだい? 何がそんなに悲しいんだい? 市議会議員の大先生さんよぉ」

 そう言って〈もう一人の私〉は、ゲラゲラと腹を抱えながら笑った。

「なんでぇ……なんでぇ……」
「俺は狐じゃないと前に言っただろ? わからずやだなぁ。だ、か、らああああ! 俺はお前でお前は俺なんだよおおおお! まだわかんねぇのか糞野郎が!」

 今までは冷笑的な態度で私をおちょっくっていた〈もう一人の私〉が、その態度を一変させて、顔を真っ赤にして激昂した。
 血走った眼球が外に飛び出し真ん丸としたその姿を現さんばかりに目を見開いて、口をぐしゃぐしゃに歪ませながら叫んでいた。

「昨日セリナにお前言っただろ? 自分自身と向き合ってみるって! なら向き合えよ! 俺がこうやって出てきてやってるんだろ!」
〈もう一人の私〉が、乱暴にベッドを足で蹴りあげた。「向き合えよ! 向き合えよ!」そう何度も何度も繰り返しながらベッドを蹴りあげる。その度に鈍い振動が私を責めたてる。私は両耳に手を当てて目を閉じ、この状況から目を反らそうとした。しかしそれは許されなかった。〈もう一人の私〉が、ベッドに上がり込むと私に馬乗りになった。そして無理矢理に私の手を耳から引き剥がすと、
「向き合えよ! 向き合えよ!」
 そう叫びながら激しく全身に力を入れてベッドを揺さぶった。〈もう一人の私〉の体重が私の全身にのしかかり、顔には生臭い唾が降りかかる。

「もう……許してくれ……」
 私は必死に声を振り絞りそう懇願した。
「許す? 許すもんかよ!」
〈もう一人の私〉は、私の手首を掴むと、私の上半身を起こそうと力一杯後ろに引っ張った。それに抗えずに私は体を起こした。〈もう一人の私〉が立ち上がる。何度もベッドを蹴り上げた右足の脛、足首、足の甲から激しく出血していた。シーツが血で染まった。
〈もう一人の私〉が顔を私の目と鼻の先まで近づけると両手で私の肩に手を置いた。そして怒りを極限まで噛み殺したような殺気立った囁き声で私に語りかけてきた。

「お前は俺を見てずっとずっと、どう思ってた? 卑しいやつだと思ってたか? いやらしい奴だと思ってたか? それとも底意地悪い奴だって思ったか? 糞みたいな糞野郎だとか、しょうもない屑野郎だとか思ってたか? それはな、全部全部お前にも当てはまるんだよ。だって俺はお前でお前は俺なんだから。お前自身の心の中に、卑しさも、いやらしさも、底意地悪さも全部あるんだよ。正直になれよ清廉潔白を装った大嘘つきの議員さんよぉ。私は卑しくていやらしくて底意地悪い人間だって認めろよ……」

 私は〈もう一人の私〉の言葉を、体をガタガタと震わせながら茫然自失で受け入れるしかなかった。

「なぁどうなんだよ!」そう言いながら〈もう一人の私〉は、私の肩を激しく揺さぶった。
「あっ…あっ…」
 私はそう弱々しく声を漏らすのが精一杯だった。口を半開きにして茫然とするしか術がなかった。
〈もう一人の私〉が私の肩から手を離すとベッドから降りた。そしてベッドの横に立ち、今度は私の髪を掴んだ。そして顔を私の耳に近づけて囁いた。

「認めろよ。全部認めて心と記憶の蓋を全部取り払え」
 
 その言葉を聞いた瞬間、私は狂った。
 頭を抱えながら出鱈目に、口から出任せにただひらたすら叫んだ。

────ああああああああああああああああ!ああああああああああああああああ!ああああああああああああああああ!

 私は私で無くなったのだろうか?

「いえ。あなたはあなたで無くなった訳ではありません。むしろ、あなたは本当のあなたを見つけようとしているのです」

 そう呟く誰かの声で私は意識を取り戻した。
 薄暗く静かな場所に寝巻き姿のまま裸足で立ち尽くしていた。
 隆々と盛り上がった根に、畏怖を感じるほどに力強くそびえ立つ幹、天高く幾十にも折り重なりながら風に揺れる枝葉。右を見ても左を見ても前を見ても後ろを見ても見渡す限りの木と木と木。
 ここはあの森だ。そう確信した。
 私はあの悪夢をまた見ているのだろうか。いやこの感触は夢ではない。現実だ。でも、あの悪夢に入り込んでしまったかのようだった。恐怖が全身を包んだ。
 ここから一刻も早く出なくては。私はきっと最後は狐に命を奪われてしまう。そんな気がした。
 微かに降り注ぐ太陽の光を頼りに、腐葉土の匂いを嗅ぎながら私は歩きだした。
 地面に落ちた鋭く固い枝たちが足の裏に突き刺さり私の歩みを鈍らせる。それでも痛みに苦悶の声をあげながら私は必死に歩くしかなかった。
 どっちに向かえばいいのだろうか。方角がまるで掴めない。何も分からない。それでも歩くしかない。
 汗がじんわりと寝巻きを濡らした。息が上がる。
 歩いても歩いても風景がまるで変わらない。ちゃんと前に進んでいるのかも気を抜くと分からなくなりそうだった。
 
 どれだけの時間歩いただろう。とにかく気が遠くなるほど歩いた。
 ふと気づくと枝葉が風に揺れる音に混じって、私の後ろから不穏な音が近づいてきているのがわかった。

 ずざっ……。ずざっ……。

 あの悪夢と同じように誰かが私を追いかけているのだ。私は後ろを振り返る事はせずにただひたすら前を見て歩き続けた。
 私は力を振り絞って歩みを速める。

 ずざざざっ……。ずざざざっ……。

 後ろからついてくる誰かも私に合わせて歩みを速めているのが分かる。そのスピードは圧倒的に私よりも速い。足音は二つある。二人いる。
 息を切らしながら必死で歩く。足の裏の痛みが限界に差し掛かる。苦痛に顔が歪む。足が縺れる。駄目だ!
 そう思った瞬間に私は地面に力なく倒れ込んだ。
 地面に倒れた私の視線の先には狐がいた。
 私の姿を見ても身動ぎせず、何事もなかったように、ただじっと私を見ていた。
 狐がその尾を一度左右に振った。
 その瞬間、狐のいた場所に白い煙が立ち込めて狐の姿を隠した。
 白い煙はしばらくすると天高く舞い上がっていった。狐のいた場所にもう狐はいなかった。だが灰色で長方形の古ぼけた石が狐の代わりにそこにあった。
 あの悪夢の中で見た墓標とそっくりだった。いや同じ物に違いない。
 墓標に何やら文字が刻まれている。

〈井上ミヤビ〉

 今日はその文字が明瞭に読み取れた。
「井上……ミヤビ?」
 私が小さくそう呟くと、墓標は嘘みたいにその場から一瞬で跡形もなく消え失せた。

 

 
 

 

 
 
 

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