【連作短編ホラー】呪いの言葉がトリガー 第三章『産まなければ良かった』3
水曜日
セリナに言われた通り玄関とベランダにそれぞれ二つずつ盛り塩を置いた。小皿に指で三角錐に固めた物だ。形は少しいびつだがそれなりの物が出来たと思う。
朝早く起きてせっせと盛り塩を作っていたら、起きてきたマサヒコが、
「なんでそんな物作ってんの? 幽霊でも出た?」
そう言って鼻で笑った。
この人に何を訴えても理解されないし、理解しようともしないことは目に見えている。反応するだけ無駄なので私は無視した。
「朝からなんなんだよ。気分悪いわ」
そう吐き捨てるとマサヒコは持っていたタオルを適当に床に投げ捨てた。
私はヒステリックに叫びたくなるのを必死に抑え込んだ。
何でこんな男と私は一緒になったのだろう?
私とマサヒコが出会ったのは大学の演劇サークルだ。
私は舞台上で演技をする俳優で、マサヒコは裏方で美術を担当していた。
打ち上げや定期的に開かれる飲み会で私とマサヒコは同期ということもあり距離を縮めていった。
私の演技に対する悩みに親身に、そして的確にアドバイスをくれたのがマサヒコだった。
他の俳優や演出家のアドバイスよりもマサヒコのアドバイスが胸に響いた。
いつしか私にとってマサヒコは無くてはならない存在になっていたのだ。
私が妊娠したのは大学を卒業し、イベント制作会社に就職してすぐの八月だった。気をつけていたつもりだったのだが……。
入社してすぐだったので産休は取得出来なかったし、何よりまだ仕事を覚えていない新人の段階で妊娠するのは非常識だという空気がまだ社会にも私の内面にも根強くあった。
私は当初、中絶して仕事を続けるつもりだった。
でもマサヒコからどうしても産んでほしいと懇願されると同時にプロポーズされた。
俺がお前と子供を絶対に幸せにする。そうマサヒコは言った。
その熱にほだされて私は会社を辞め、カイトを産んだ。
そして時が経ち、今マサヒコはこの体たらくだ。
どうしても産んで欲しいと懇願して誕生したカイトの世話などほとんど見ていない。私に任せっきりである。気まぐれに遊びに連れていくが飽きるとすぐに私に面倒を押し付け自分勝手な行動で振り回す。
マサヒコには心の底からうんざりしている。
マサヒコにうんざりするたびに、私は選ばなかったもう一つの道の事を想像してしまう。
あのまま会社に残っていたら、エンタメ業界で輝いていた私がいただろうかと。
しかしそれと同時にそんな事を考えるたび、カイトに対して、カイトを産んで良かったと心の底から百パーセントで思えていないことに対する罪悪感も沸き上がってしまうのだ。
カイトの事は愛している。誰よりも大切な存在だ。だからこそ、その罪悪感が私の背中にとんでもない重さでのし掛かってくるのだ。
「ママ、今日幼稚園行きたい!」
カイトが朝食を作り始めた私の所にやってきて叫ぶようにそう言った。
甲高い声が突き刺さったかのように私のこめかみに鋭い痛みを走らせた。
怒鳴りたくなる気持ちを必死に抑え込む。
「まだ念のため休んだ方がいいんじゃない?」
優しく言ったつもりがぶっきらぼうで冷たい口調になった。苛立ちを隠そうとして隠しきれていなかった。
「もう僕元気なのに!」
麦わら帽子の男の魔の手はすぐ側まで来ている。今日、母親に電話して魔除けの御守りを買ってきてもらうつもりだ。それが届くまでは外出は控えたい。
私はカイトを守るために行動しているのだ。カイトにたとえ嫌われたとしても、カイトを守るのが母としての責務なのだからここで折れるわけにはいかない。それでも、
「ママはカイトのためを思って言ってるんだよ?」
そう一言だけ口に出して言わずにはいられなかった。
「ママのバカ!」
カイトは喉が引きちぎれそうになるくらいの大声で叫んだ。私のこみかみにまた鋭い痛みが走る。
「朝から大きな声出すんじゃないの!」
ついに我慢しきれずに私もヒステリックに叫んでしまった。自業自得の痛みがこみかみに走り、私の気分を沈ませた。
「どうしたんだよ。別にもう元気なら幼稚園行かせてやればいいだろ」
勤め先である工場の作業着に着替えたマサヒコが、ふらりとやってきて面倒臭そうにそう言った。
「あなたは黙ってて。口出ししないで……」
こめかみを抑え目を閉じたまま私はそう低く呟いた。
「カイト、今日はパパが幼稚園連れてってやろうか。女って嫌だな。朝からヒス起こすからな」
私は薄く目を開き、カイトとマサヒコの姿を視界に入れた。マサヒコが膝を曲げしゃがんでカイトに目線を合わせている。マサヒコの酷い言葉にカイトは口を尖らせながら、こくりと一度頷いた。
私はそれを見て、心の中で何かがとぷつりと音を立てて切れるのを感じた。
私は気づくと声を上げて泣きたくなるのを我慢していた。
私のスマホが着信を知らせる音を鳴らした。
サクラからだった。
躊躇うことなく私はその電話に出た。
マサヒコは結局カイトを部屋に残して部屋を出ていった。
「もしもしユキナおはよう。ちょっとライン既読無視しないでよ」
サクラは笑いながら明るい声色でそう言ったが、真意が少し読めない雰囲気で私は戸惑った。
「ごめんごめん。ちょっと忙しくて」
「カイト君の体調どう?」
「だいぶ良くなったみたい」
「そう。それじゃあ今日ランチ行けるよね?」
ここで私は違和感を覚えた。サクラと電話で会話するのは何年かぶりだが、こんなにも忙しなく早口だっただろうか。
「うん。でもちょっと今日は厳しいかも……」
私のその言葉でさらにエンジンが掛かったかのようにサクラの言葉のスピードがあがる。まるで倍速で動画を見ているときの音声のようだった。
「えっ? なんでよ? カイト君は幼稚園なりお祖母ちゃんなりにさっさと預けちゃえばいいのよ。ユキナはカイト君に縛られすぎよ。カイト君なんて放っておけばいいのよ。本音ではユキナだってカイト君なんて放っておきたいと思ってるんでしょ?思ってるはずよ! なんならカイト君なんて産まなければ良かったって思ってるはずよ! そうでしょ? ねぇそうでしょ!」
サクラの言葉を聞いているうちに、私の視界は霞んでくるくると回転を始めた。
目眩と吐き気に襲われる。
走馬灯のように物心ついてから今日までの人生が頭の中で駆け巡った。
走馬灯がカイトがお腹に宿っている事が判明した日まで巻き戻される。
再び前に進み始めた走馬灯は、私が選ばなかった世界線を再生し始めた。
スーツをスマートに着こなして、綺麗にメイクとネイルを整えて、大規模なイベントを成功させて、沢山の人たちから称賛される私の姿が見えた。
「ほら。カイト君なんて産まなければ良かったって正直に言っちゃいなよお!」
カイトは私の事を不安そうに見つめていた。
その姿を見て、私は気を強く持たなければいけないと踏ん張り、必死に私を陥れようとする見えない力に抗っていた。
でも、その見えない力はとんでもなく強力だった。
駄目だと分かっていても強引に心が持っていかれそうになる。
サクラの底意地悪い声に導かれるように私は自然と禁断の言葉を、ついに口に出してしまっていた。
「産ま……なければ……よかった……」
電話の向こうでサクラが笑った。
その笑い声がさっと一瞬で色を変えた。
カラスの鳴き声を押し潰したような笑い声に。
「産まなければ良かったって言うならカイト君連れていっても問題ないですねぇ。やっぱりおかあさん演じてますねぇ」
閉めきっていたベランダの窓に鈍い音を立てて何かが衝突して、下へと落ちた。
茶色く粘度の高いオイルまみれの死んだ鳩だった。
その鳩を唖然と見つめていると、玄関のドアがガタガタと音を立てて揺さぶられた。
何かが中に入ってくる気配を感じる。
恐る恐る玄関に向かう。玄関に置いた白い盛り塩が黒く変色していた。
「お邪魔します」
麦わら帽子を被った男が玄関扉をすり抜けて部屋に入ってきた。
男はクリーム色の作業着を来て、腕と脛に紺色のカバーをつけていた。手には細長い鉄串が握られている。
男が麦わら帽子を取った。男の顔が露になる。
目が細く吊り上がったトカゲのような顔だった。
皮膚はくすんだ緑色。
男が私とカイトを見てにやっと笑った。
口の中に鋭い牙が四本見えた。
セリナの言う通り、やはりこの男はこの世の物じゃない。そう確信した私の全身に恐怖が駆け巡り、足が震え始めた。