その日の勇者たちよ、僕らはやり遂げた。
試合終了を告げるホイッスルが鳴った瞬間、大部分の静寂の中で歓喜の雄叫びと太鼓の音を響かせた。
2022年9月25日、Y.S.C.C.の今シーズン5勝目。2位を走る松本山雅FCにアウェイで1-0で勝利した。声出し応援の対象となったこの試合での勝利は、のちにジャイアントキリングや衝撃的な一戦としてセンセーショナルに取り上げられる。しかし僕にとって、僕らにとって、この勝利にはそれ以上に重要な意味があった。
2009年12月5日、全国地域サッカーリーグ決勝大会第2戦。松本平広域公園総合球技場でY.S.C.C.は松本山雅FCに0-1で敗れた。それから13年の時を経て、同じ松本平広域公園総合球技場で、同じ松本山雅FCに、Jリーグの、J3の舞台でリベンジを果たした。それこそがこの試合で最も重要だった。
松本まで駆け付けたY.S.C.C.サポーターが、「その日」を現地で経験した人々が、そして今は亡き「その日」の勇者を描いた弾幕が見守る中、僕は13年前にその場に広がっていたであろう光景を勝手に想像していた。
13年前の「その日」のことは全く知らなかった。当時はまだY.S.C.C.というクラブのことも知らなかった。いつから、どのタイミングからをそのチームの「サポーター」と定義するのか分からないが、Y.S.C.C.の試合を観始めたのはまだ4年前のことだ。
初めて現地、ニッパツ三ツ沢球技場でY.S.C.C.の試合を観たのは、先述の通り4年前、つまり2018年だった。
残暑のキツい昼の横浜でゴール裏から観た水色の戦士たちは、Jリーガーとして戦うと同時に、試合後にはクラブのスクールに通うサッカー少年たちの「お兄さん」「コーチ」として子供たちに接していた。後から知ったのは、多くの選手がJリーガーだけでなく、他の仕事やアルバイトを掛け持ちしているということだった。衝撃を受けると同時に、このクラブを追ってみたいという気持ちが芽生えた。
翌年には当時のY.S.C.C.のエースで、「レンタルJリーガー」という企画をしていた浅川隼人選手(現在は奈良クラブ所属)からも食事会などを通してクラブの話を聞いた。試合は現地観戦だけでなくDAZNでもリアルタイムで観るようになった。
追えば追うほど、Y.S.C.C.というクラブの持つ魅力や課題が見えてきた。クラブがJリーグの舞台でも掲げ続ける理念や理想を知るほど、その思いに共感した。
何よりも、三ツ沢に足を運べば運ぶほど、Y.S.C.C.に携わる人々に接するほど、ファン・サポーターを含めてクラブに関わる人々の熱さと暖かさ、クラブへの愛情を強く感じるようになり、いつしか自分自身もその熱意の渦に引き込まれていった。
容赦なく襲い掛かってきたコロナ禍を経て、再びスタジアムに足を運べるようになった2020年、クラブは後半戦未勝利街道を突き進んでいた中、あの頃から僕は本格的にY.S.C.C.を応援し始めた。2018年に初めてY.S.C.C.の試合を現地観戦して以来、実に2年半が経過していた。
そして今シーズン、様々なきっかけがあり、これまで追ってきた角度とは異なる視点から現状のクラブやチーム、サポーターを見ることが増えたが、同時に過去のY.S.C.C.に触れる機会も増えた。クラブの成り立ちから神奈川県リーグ、関東リーグ、JFLを経て辿り着いたJ3。これまでY.S.C.C.に長く触れてきた方々から話を聞き、1986年から続くこのクラブの歴史に触れることで、Y.S.C.C.を応援する者として偉大な先人たちから(勝手に)受け継ぐものもあった。
その中には当然、2009年の松本戦の話もあった。むしろその話はあらゆる方から繰り返し聞かされてきた。映像でもその試合の失点シーンを目に焼き付けた。
だからこそ、「アルウィンでの松本戦」には運命的な何かを強く感じ、試合が近づくにつれて徐々に昂るものを感じていた。しかも声出し応援対象試合ともなれば、もう興奮を止めることなど出来ない。
試合前の時点で松本は2位。対するY.S.C.C.は18位、つまり最下位。声出し応援が戻ってくる試合で、見渡す限り緑色に染まる圧倒的アウェイ。誰がどう見ても松本の勝利が妥当、というのが戦前の大方の予想だったに違いない。
試合当日に使ったのはこの写真の黒太鼓だったが、これは13年前に同じくこの地で使われた太鼓だと教えてもらった。13年前の「その日」を知る太鼓を使わせてもらうのは、非常に身に余る光栄だ。今シーズン何度も使っていた太鼓が、急に重く感じられた。実重量以上に、13年という時が流れてこの場に立っているという重さがあったのかもしれない。
試合前アップの時から僕の腕は、太鼓を叩く振動に紛れて、武者震いで震え始めていた。
いざ始まってみればY.S.C.C.は松本相手にも自分たちのスタイルを貫き、堂々と渡り合う展開。勿論苦しい展開や押し込まれる場面はあったものの、いつも以上に気合の入った選手たちは要所を締め、チャンスと見るや鋭く突き刺す攻撃を展開した。
その瞬間はきっと、J3屈指の強豪相手にも恐れず挑み、真っ向から立ち向かう姿勢に対する当然の報酬だったのだろう。前半もこのままスコアレスで終わると思われた43分過ぎ、この夏にルクセンブルクからやって来た狩人が、まさしく「蝶のように舞い、蜂のように刺す」先制パンチを決めた。13年前の失点シーンを彷彿とさせる、美しいゴール、いやゴラッソ。ロリス・ティネッリ、最高だぜ。そして彼を輩出したルクセンブルク、最高だぜ。
Jリーグ史上2人目のルクセンブルク人選手が前半に刻んだスコアが決勝点となり、16時57分、僕らは最高の瞬間を迎えた。最後の5分間のことはもう殆ど覚えていないが、たった5分のアディショナルタイムが人生で最も長い5分に思えたこと、主審の笛が鳴るたびに試合終了かと錯覚したこと、終了のホイッスルの音が甘美で全てを吹き飛ばすものだったことは、鮮明に記憶している。
13年前、先人たちが、その日の勇者たちが手にできなかった勝利の瞬間に、幸運にも僕は立ち会うことができた。13年前と同じく松本の地でこの試合を見届けた「その日」の勇者も、今は弾幕に刻まれた人となった「その日」の勇者も、「その日」を知らない僕らも、この勝利の重さと意味を、きっと一生忘れはしない。
「その日」の勇者たちへ、僕らはやり遂げた。
はっきり言おう。Y.S.C.C.は決して強くない。それでも僕はY.S.C.C.のサポーターだ。
理念や理想、目標を差し置けば、クラブの実態や成績はまだまだJリーグのクラブとして100%胸を張ることができるものではない。
他のJリーグのサポーターから見れば、Y.S.C.C.の姿は得体のしれない異様なものに映っているかもしれない。「どうしてわざわざ横浜の3番手のクラブを応援するの?」と言われたことも何度もあるし、そう思う人がいるのも不思議ではない。
ホームで、アウェイで、リーグ戦で、天皇杯の県予選で、率直に言えば無様な試合や怒りを抱く試合をいくつも観た。立ち上がれなくなるくらいに悔しい試合や、号泣して1週間立ち直れなくなる試合もあった。選手やスタッフに率直な思いをぶつけてしまうこともあった。いつになったら勝てるのかと勝手に悩んだこともあった。
それでも、頭は勝手に次の試合のことを考え、手は勝手に次の試合への意気込みや思いを発信し、足は勝手にスタジアムへと向かう。たとえ前の試合がどれほど絶望に打ちひしがれるものだったとしても、だ。
ホームゲームでは、Y.S.C.C.が背負う横浜の街を少しでも目に焼き付けるために、毎回徒歩で三ツ沢の急斜面の坂道を登る。少しでも多くの同じY.S.C.C.サポーターやスタッフの方々に毎試合挨拶をし、声を掛け、会話をし、Y.S.C.C.に携わる人々の姿を目に焼き付ける。
J3に関東のチームが殆どいないので、アウェイは毎回と言っていいほど遠距離の遠征が続く。時間や経済的に厳しく、泣く泣く断念するアウェイゲームだってある。節約のために、北九州へのアウェイ遠征に飛行機で山口宇部まで飛んでから、電車で3時間以上かけて小倉に向かったこともある。
しかしどれほど勝利が遠くても、遠征先が遠くても、僕はY.S.C.C.の1つの勝利に対する喜びや、クラブに関わる人々の温かさ、紡いできた歴史を日に日に学び、実感している。何よりも、目の前で見せられる勝利の瞬間は、全ての苦痛が忘却の彼方に飛んでいく。
だからこそ僕は、毎試合ホームゲームのためにニッパツに通い、アウェイ遠征が近づけば出費を極限まで削り、他人から奇異な目で見られるような経路でも遠征に向かい、Y.S.C.C.の試合に行く。
その中の1試合が、この松本戦だった。そして記憶に残る1試合となり、どんな試合にも負けない思い出になった。人生で、これほどかけがえのないものに出会うことは、そうそうない。
そんな試合を経て、僕はまた、Y.S.C.C.に恋をし、心と足が赴いてしまう。
結婚し、子供が出来たら、僕はこの日、松本の地で起きたことをきっとその子供に語るだろう。自分の子供がY.S.C.C.を、Jリーグを、ましてやサッカーを好きになるかは分からないし、そもそも子供が出来るかも結婚出来るかも分からないけど。
だったらこれからY.S.C.C.に興味を持ち、僕らと一緒にこのクラブの仲間になってくれる若い子が現れた時、その話をすればいい。僕がこれまで先人たちから教わってきたように、Y.S.C.C.が紡いできた歴史の1ページ、僕が実際に立ち会った一幕を、その子にも教えてあげよう。
このストーリーをきっかけに、若い力、新しい風がまたさらにこのクラブの歴史を紡ぎ、その下の世代にも受け継いでくれたとき、いったい僕はどんな景色を見ることが出来るだろうか。それを楽しみに、僕はこれまで受け継いだものを、そのままその子に惜しみなく注いでいこう。
俺たちの水色の港町の戦士たちのために、いつも、いつまでも、俺たちと共にさらなる高みへ行こう。僕はこれからもあいつらのために手を叩き、愛する仲間のために歌う。
そして横浜にこの街の唄を響かせ、Y.S.C.C.というクラブの存在をこの街の歴史に刻み、これからも勝利と新しい風を呼び込むために、僕はこれからもY.S.C.C.を追い掛け続ける。
最後にもう一度言おう。僕はY.S.C.C.のサポーターだ。