学ばないとどうなるの
なぜ学ぶのかと考えるとき、坂口安吾の「ラムネ氏のこと」を思い出します。かつて、ドラマ「金八先生」が文化のことを語る場面で、坂口安吾を引き合いに出して「文化とはふぐちりである」と語る場面があった。
原典は、坂口安吾の「ラムネ氏のこと」、その場面を引用すると「我々は事もなくフグ料理に酔ひ痴れてゐるが、あれが料理として通用するに至るまでの暗黒時代を想像すれば、そこにも一篇の大ドラマがある。幾十百の斯道の殉教者が血に血をついだ作品なのである。その人の名は筑紫の浦の太郎兵衛であるかも知れず、玄海灘の頓兵衛であるかも知れぬ。とにかく、この怪物を食べてくれようと心をかため、忽ち十字架にかけられて天国へ急いだ人がある筈だが、そのとき、子孫を枕頭に集めて、爾来この怪物を食つてはならぬと遺言した太郎兵衛もあるかも知れぬが、おい、俺は今こゝにかうして死ぬけれども、この肉の甘味だけは子々孫々忘れてはならぬ。 俺は不幸にして血をしぼるのを忘れたやうだが、お前達は忘れず血をしぼつて食ふがいゝ。夢々勇気をくぢいてはならぬ。 かう遺言して往生を遂げた頓兵衛がゐたに相違ない。かうしてフグの胃袋に就て、肝臓に就て、又臓物の一つ一つに就て各々の訓戒を残し、自らは十字架にかゝつて果てた幾百十の頓兵衛がゐたのだ」(坂口安吾「ラムネ氏のこと」青空文庫より)
昨年の今頃から、新型コロナウイルスが蔓延しはじめ、世間では自粛警察なるものが跋扈(ばっこ)し、同調圧力となった。まずターゲットになったのは、蔓延している地域から車で買い物に来る人、続いて、パチンコ屋さんに列をなす人たち、といった有様でした。さらに、罹患した人やその家族が誹謗中傷の対象となりました。
新型コロナウイルスが飛沫感染であるとわかり、少し落ち着くかと思えば、次は、マスクをしていないという人がターゲットになりました。確かに、咳エチケットとしてマスクをであるとか、不特定多数の人が集まる場所ではというのは理解できます。そのような場所で、マスクをすることを拒否して、搭乗を断られた人もいます。
徐々に、ウイルスの正体が見えてきている状況を考えると、なぜ〇〇はという学びの基本姿勢が大事であるように思います。なぜ手指消毒が有効であるのか。なぜ新型というのか、新型があるならばもともとはどのようなものなのか。どのような仕組みで感染するのか。そもそもウイルスとはどのようなものなのか。細菌とウイルスはどのように異なるのか。
なぜを考えると、自分がこれまで獲得してきた知識を総動員して考えるはずです。
私たちが当たり前に活用している知識は、長い時代にわたって人々が格闘し獲得してきたものです。まさに、坂口安吾のふぐの話がそれを象徴しています。さらに、高校生が手にしている教科書は、誰もが理解できるように書かれています。確かに、ただ読んだだけでは、味も素っ気もなく、自分の心に残ることはないかもしれません。しかし、なぜ、何を伝えたいの、というような隙間を埋めるような読み方、時には、あなたがたが持っているスマートフォンなどで検索をし、理解を深めていく読み方をすれば、知識は自然とあなたがたのものになります。そして、知識は、単独で活用するのではなく、つなげることが大事なのです。理科で獲得した知識を、社会というフィルターを通してみたり、家庭科のフィルターを通してみたりすると、知識がつながり、漠としたものが明確になってきます。それが学びであり、学びをやめてしまうと… 想像してみてください。
大きな声の主が世間を牛耳(ぎゅうじ)るようにならないだろうか。
怖い世の中にならないよう学び続けませんか。大人も同じです。
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