さだまさしさんの「償い」
ここのところ、謝罪に関する報道を目にしたり、耳にしたりします。自分がしでかしてしまったことに対する謝罪のはずなのに、素直に聞くことができない内容ばかりのような気がします。
せっかく獲得された金メダルをかじってしまう人。女子ボクシングで感動を与えてくれた人を揶揄するような人。
この人たちが、名もなき、市井に生きていて、何か面白くないことがあり、我慢できずにというのであれば、自分の部屋で、個人で述べているのであれば、仕方がないかなと思えなくもない。しかし、この人たちは、公衆の面前で、悪びれずに行い、発言しています。自分は、何もしても許されるとでも思っているような、このように振る舞うことを求められているように錯覚しているように思います。かつて、母親から、人様をさげすむような行為をしていては、やがて社会から相手にされなくなからしてはいけないんだよと言われて育ってきたように思います。
似たような言葉に、お天道様はお見通し。何度も何度も聞いてきたように思います。少なくても、精進して成し遂げたことに対する、彼らの対応としては、いかがなものかとも思います。彼らも、精進し、今の地位を獲得したはずです。それを、忘れてしまったかのような行動や発言です。
人は、誰も完全な存在ではありません。だから間違ったときは、素直に非を認め、言い訳ではない、自分の心からの言葉で、自分の思いを相手に伝えるはずです。今回の対応はおそまつそのものに思えるのはおかしいのかな。
そのようなことを考えたとき、さだまさしさんの「償い」という曲を思い出しました。さらに、ある少年事件で、裁判官が、判決を読み上げ説諭の場面で、少年たちに「償い」を用いて、謝るとはどういうことか伝えた記事を思い出しました。そういえば、この記事と「償い」を用いて、子どもたちを、ホームルームで指導したな。他の学校でも使ってくれて、中には涙する子どももいたと聞きました。
素直なに謝れない大人を見て、子どもたちに素直になれと言えるのであろうか。少なくとも、自分は、素直に謝れる人でありたいし、子どもたちにも自分の言葉できちんと、相手に伝わる謝罪を述べられる、大人になってもらいたい。
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