失敗を恐れるよりも体感力
私の周りで今話題になっている「体感力」について今回はお話したいと思います。
私が言うから話題になってるだけだけどw
我が家の長男もそうですが、
データや情報が先にインプットされる時代なので経験していなくても経験した気になって話をすることがあります。
そして、その感覚で知ってる気になる。
やった気になる。
やる前から結論づける。
評価する。
なんてことがあります。
◯◯らしいよ、●●がこう言ってたよ。
▲▲らしい、△△によると〜。
それは、その発信者の話や体験であって、あなたの目で見て感じて経験したことではないでしょう。
あなたは、あなたの体験や体感を持って感じて学んで生きなさいとその度に伝えます。
それが、最近では子供だけでなく大人にも多いのが残念な部分です。
知った気になっている。
分かった気でいる。
それで打ち合わせの話が進んだりすると本当にもうガッカリ。
だからというわけではないですが、
私はなるべくなんでも初めて。
なんでも初体験の感覚を忘れずに向き合いたいと思っています。
経験値から先が見えたり、こうだろうなと予測は立てられますが、
こういうもんですよね、こうなるはずですよねという決めつけたもの言いは避けるようにしています。
そうとも限らないという可能性を持って、何事も期待値込みで向き合いたい。
それは人付き合いもそうです。
このパターンってこうゆう人多いよねっていう経験値からカテゴライズしてしまう自分の癖があるからこそ、そうならそうとその自分の中のデータを蓄えるべく、その方とは初めましてなので初めましてでちゃんと向き合います。
仕事においても、毎日が知らない世界や業界の常を学んでいるわけですが、一方の意見を聞いてそうなのか!と思い込むことはしません。
そうなんだ、じゃあ聞いてみよう。
じゃあ見に行ってみよう。
違うパターンも有りかもしれないから、やってみよう!となるわけです。
会社をやっていると損を減らし、利益を積むということがあっての経営になりますが、その損だって全くせずに利益を得るなんてこと、私はまずないと思っています。
失敗せずに生きるなんてことありますでしょうか?
転ばない人っているんでしょうか?
もちろん、だからこそ、その痛手はなるべく少なくなるように行動した方が良いというのはリスク管理や自己防衛として理解が出来ますが、そればっかでは挑戦ではないですよね?
成長や学びもどこにあるのか。
まして、目指すことがあるのであれば保身だけでは前に進みません。
子育ても同じですね。
親が良かれと思って先回りしてしまうケースっていろんな場面に見受けられますが、
私はそれを極力しない。
人様に迷惑をかけてしまう、命に関わってしまうということ以外はなるべく口を出さないようにしております。
しかし、一方で、親心としては無いに越したことはないですし、愛してるが故に守りたくもなりますが、それでも、人様にも迷惑をかけてしまう経験、命の危険性を多少なりとも感じる経験も必要だとも思っております。
自分なんてちっぽけだ、やっちまったという体感も必要です。
もちろん、自分サイコーだ!ひゃっほう!という体感も必要です。
可愛い子には旅をさせよ。
まさに、これです。
それは親としては心配が絶えないことだとは思いますが、私たち親も修行だと思い、忍耐を身につけなければなりません。
口を出したくなるところをグッと堪えて、そうなんだ!やってみな!と言ってあげる。
どうなるか見えててもです。
そして、子供達が失敗したり、傷ついたりした時には、おかえり、お疲れ様と言って労り、よく頑張ったね、大丈夫だよと心を抱きしめてあげられる、アホだね〜バカだね〜も笑ってあげられる、そんな風に器量を持って接してあげることが、安心と自信に繋がると思います。
そしてまた挑戦する時には、背中を押して送り出してあげる、そんなことが大事なんではないでしょうか?
私たち自然界で生まれ育つものは全て不完全です。
だからこそ、美しく、儚く、たくましい。
努力することは素晴らしい心得ですし、一生懸命生きるということにおいても要であると感じますが、〇〇の為、と言いながらも結局それは自分の為であるんだと気付ける人は少ないです。
その上で俯瞰して物事を見極め、落ち着いて、仕方がないね、そういうこともあるよねと深く追求しないということが出来る人も少ない。
あそこは変だ、あの人はおかしいと自分と違うところを批判する人もいる。
たかだか42年しか生きてきていませんが、何にでも意味があると感じる方も多いようですが、そうでもないことっていっぱいあるんだよと伝えたい。
たまたまなこともあるし、気分ってこともあるし。
なんでも自分がそう思ったから相手もそうとは限りませんし、人生の価値基準も本当に人それぞれです。
なので、おかしくない?と思うことがあればそれは相手からすればあなたもおかしいわけです。
先日もとある女性起業家の交流会で、話題になったことがありました。
言った言わない、誠意があるない、利用した利用された、仕返ししたされた...
どっちもどっちなケースがほとんどですが、急に被害者ぶる方もいらっしゃるし、急に権力振りかざす方もいらっしゃるし、急に法律振りかざす方もいらっしゃるし。
本当にいろんな人がいらっしゃると思っています。
ありがとうと同じくらいに、
ごめんなさいがちゃんと言える大人ってどれほどいるんでしょうか?
実は、私は誠意という言葉があまり好きではありません。
真心は好きです。
誠意を感じません!と言う方を度々見かけますが、いつもとキョトンとしてしまいます。
本当に誠意を感じたいだけ?と。
そして、その誠意って受け手の感じ方だから受け手に合わせる形になるよね。
それってフェアじゃなくないかと。
だって、受け手の満足度の話じゃないですか。
起こってしまった事実に誠意ってなんだろうと。
お互いにそこは感じていないから拗れているパターンのが多いでしょうし。
権利や義務をフェアにしようとする傾向はあるけど、責任がフェアじゃないのってどうも納得がいかない性分です。
ヤクザ映画みたいに気がおさまらないから指を詰めろと不条理なことを言ってるだけのように感じてしまうんですよね。
とかって言うのを、考えられるのも私は自分の経験や体感を持ってるからなんだと思っています。
よく相手の立場に立って、思いやりを持ってなどと教育の現場などでも話されますが、自分にその体感がなければ、相手側の想像力も持ち合わせてないでしょうし、考える引き出しも生まれないですよね?
モラルの話とはまた別で、
思いやりというのは受けたことがないと思いやれないものです。
愛情も同じだと思っています。
愛情を受けたことがない人に愛情論を唱えても全く響かない。
ずーっと平行線。
転ばないと転んだ時の痛さが分からないのと同じです。
だから優しくもなれるし気をつけられるのに。
転んだ時痛かったから同じ経験を相手もすればいい、そう思う人はよっぽど心がひん曲がってるなと感じてしまいます。
結構これも多いですけどね。
相手も傷つけ!となる方。
そりゃ戦争は無くならないなと感じる瞬間です。
体感するというのは感じることです。
自分の身体と心でしっかりと感じること。
それは自分にしか分からなくたっていい。
でも、それが生きるということなんです。
感じずに、生きるということは
私たち五感で生きる人間には出来るわけないんですから。
私たちは所詮人間です。
勘違いしてはいけないんだと思っています。
最近体感していないな。
心が動かされていないなと感じる方がいらっしゃるのであれば、
思いっきり運動するのも良いと思います。
息苦しい、空気が美味しい、筋肉が悲鳴を上げている、それも体感だと思います。
隣にいる大切な人に
大好きだよ、愛してるよと言うのも良いかもしれません。
相手の反応によって改めて体感することが出来ると思います。
伝えてみたものの、あれ、なんか違うって感じることも含めて体感ですw
ごはんを食べて美味しい!美味しくない!って感じるのも体感ですよね。
身体は正直ですから。
毎日を体感して、生活してみるだけで
視える世界が変わってきます。
いっぱい体感し、広い心と視野で受け止めていきましょう。