「文明」と「文化」比較【山は文化の源流 海は文明の母】
山は文化の源流、海は文明の母なのです。
前の森を育てる内容の記事で書きました。こちら
で今回は、「文明」と「文化」を対比してみたいと思います。
文明と文化
文明も文化も、外国語の訳語として明治以来多用されている言葉です。英語でいうと「文明」は civilization であり、「文化」の原語は culture です。シヴィリゼイションは、ラテン語のcivil(市民)から生じていて、都市の生活に関係があります。カルチャーは、同じくラテン語のcultūra(耕作)から派生して、農村の生活に関係があります(後期ラテン語 cultivare→英語 to cultivate”耕作する”)。この”耕作”の意は、”手がけること・営み・従事”の意味から限定されたものです。同系の英語 cult(ラテン語 cultus)は “神事・礼拝” の意を得ています。カルチャーは(心地の)開発の意から “教養” の意となり、さらには社会一般が培養した教養性、すなわち “文化” の意を得たものであります。
文明は「都市生活」などに熟していき、都市が自然界の中に人間独自の境域を人工的に建設したものであることに対応して、自然処理の活動を意味することになりました。ここから「物質主義」とか「機械文明」などという表現が生まれました。 文明 は半自然の傾向を帯びるように思われがちです。civilization に文明という訳語を当てたのは、せっかくの立派な漢字である「文明」には気の毒な事かもしれません。シヴィリゼイションにこもる意味は「文明」という漢語が本来持つ意味ではなく、ただの約束事、言葉の符丁程度と理解すべきであると思います
文化 は、カルチャー(耕作)において人間が敬虔に人事を尽くし、天意による作物の成果を待つよりほかないことに示されるように、人間が超越者(天なり神なり)に対して、ひれ伏して構えることを基底にしています。ここから「精神文化」などに熟していきます。
文明が外面的活動であり、文化は内面的活動であります。ーーーーただし1950年以降に流行した「文化住宅」とか「文化生活」などの文化という語の俗用においては、文化が文明を、しかもそれの低俗な面において意味する結果となっています。
明治初年には「文明開化」という語が時代の合言葉のように用いられました。その第一字と第四字で「文化」という語になったのではと推測されます。文明により人間の暮らしが拓けました。動物に近い生活から人間的な生活に変化していく。こんな意が「文明開化」にこもっています。
動物の域から、人格存在へ。ということは、生活領域にも精神の領域にも現れてきました。後者の場合「開化」はカルチャーの意味内容と一致することになります。
なので、文化と文明は、異質のものとして対立するのではありません。文化を広い意味で解釈し、文明をその一側面とする所見も立つのではと思います。
『新潮国語辞典』で「文化」を引いてみると、次のように説明しています。
『人間が、自然に対して働きかける過程で作り出した、物質的・精神的所産の総称。物質的所産を文明というのに対し、精神的所産(学問・芸術・道徳・宗教など)を文化という場合が多い。』
文明が、物質的生活の上でのみの変容ないしは進歩というのであれば、それはむしろ「文明開化」となることでしょう。人を大量に殺傷する手段が開発されたり、生活の利便を追うのにあくせくして、公害を拡大していく文明などは、本質的な「文化」を逸脱して、独走していくものです。
明治開国以来、国際的競争場の中で勝ち残ろうとしました。西洋の物質文明・機械文明を積極的に摂取しました。その代償として、西洋の精神文化よりも高度の発達段階にある『日本』のまた東洋の精神文化の価値を大分見失っています。
このことは反省しなくてはならないと思います。
「開化」というとき、「開」は境域の拡大を意味します。「化」は位格の向上を意味します。境域の拡大は、いはば量的のものであり、位格の向上は質的のものになります。
同じ趣旨が、「超越」という言葉にも表れています。「超」は次元的に、位格的に超えることで、「越」は同一の地表上を彼方へ超えることになります。両字とも走をしたがえて、召なり戉なりの声になります。
英語 transcendence “超越”の前半トランスはラテン語で、”彼方へ”を意味します。なので、「越」に当たります。後半はラテン語 scandere “登る”からでまさに「超」に当たります。
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