考えれば先に進めるか、そうでもない。
私の悪習は考えること。
考えても結局のところ、その考えを実現させることが無い。
って言うと言い過ぎかもしれない。ほぼ無い。
そんな私を側からは「即断即決」の人と見られているようだ。
なぜそうみられているか思い当たる節もない。
それにも増して、実際よりも見栄えがいいらしいのだ。
だから私とある程度関わった人たちは、明らかに期待はずれ感を醸し出される。
なにしろ「考えに考える」ことの結果が「何もしない」では期待はずれも甚だしい。
私自身でさえも歯がゆいことこのうえない。
この事はどうやら見た目の「仕事の出来る人」感にも通じているようで近頃頼りにされることが少なくなった気がする。
まぁ、それは多分一過性で冬の時代だと思っていればやり過ごせる。
時間を気にせず邁進出来た頃と、先が見え日々の努力をけちりだした自分がいたとする。
確かに前者の自分は40歳を過ぎるまで確実に存在した。
後者はどうだ、そんな自分は見たくないし知りたくもないと未来の自分が叫んでいる。
当然、終わりに近づけば先が見えてくる。終わりというのは私の場合、定年退職だ。
今思えば過ぎた20年は早かった。20年前に今野自分は想像できなかった。
20年前に追い求めていた理想に一歩も近づくことができず立ち止まっていたとしか思えない。
理想とはなんだろう。理想は目標だったか。そして理想を追い求めた目的は何だったか。
それは正に「野心」「野望」としか言いようのない事だったに違いない。
そもそもが小心者の私にこの目的はありえなかったし、抱いてはならなかった。
大いに反省している。
そんなものは抱かず、も少しマシな「夢」を叶えたいと真面目に努力しろとアドバイスしよう。勿論20年前の自分にだ。
さて、過ぎ去ったことは反省したら引き出しにしまい、とりあえずしまった場所は覚えておこう。そして人生の季節が一周まわる来年は生まれ変わったつもりで真面目に努力しよう。
抱く夢は野心でも野望でもないでも私にとっては憧れの夢。
20年後は80だ。私的で申し訳ないけど両親は80歳をとおに超えお陰様の感謝しかない。
私もそこに近づけるだろうか。
私の子供は親を簡単に超えていくんだろうなぁと何と無く考えるが、私といえば未だに両親を超えることができていないが、実はそのつもりもない。
両親には大往生を望むし、子供達には出来る限り苦労を少なく並の人生を歩んでもらいたい。
これだから先に進むのは容易な事ではないと二の足を踏んでいるかのように映るのだろう。