2024.8 炎上する絵師 歌川芳虎
河鍋暁斎が歌川芳員に馬乗りになっている歌川芳虎を「暁斎画談」に描いている。歌川芳虎には気性の荒いの一面があったようだ。
芳虎は江戸時代の終わりから明治時代にかけて活躍した浮世絵師の一人になる。役者絵や美人画を数多く残しているほか、冒頭の「東京日本橋 馬車通行図」のような明治維新前後の新しい時代の幕開けも活写している。
得意にしたのは武者絵で、戦国武将や忠臣義士などの力作が多い。
「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに食うは徳川」。これは天保の頃に流行った落首。織田信長が乱れた世の平定を目指し、羽柴(豊臣)秀吉がその意思を受け継いで天下統一を進め、二人が世を去ると家康がなんなく天下を手に入れたという意味がある。
家康にしてみれば酷い言われようで、三方ヶ原の戦いや伊賀越えなど、命からがらの目に遭っているし、関ケ原の合戦だって薄氷を踏む勝利だったはずだ。
この落首に着想を得て歌川芳虎は「道外武者御代の若餅」として錦絵を描き上げた。ときは嘉永二年(一八四九)で、ペリーが来航する四年前になる。信長とおぼしき武将が杵を振り上げ、明智光秀が臼に手を入れ、その横で着衣した猿(秀吉)が餅をのばして、後ろに座って満足げに餅を食らうのが家康という構図だ。
出版すると大評判となるが、神君(家康)を風刺したと芳虎は幕府から手鎖五十日の処罰を受け、版木も削られてしまう。
当時は天保の改革が布告され、奢侈の禁止によって寄席や歌舞伎など庶民の娯楽が制限されていた。閉塞した世の中にあって芳虎の錦絵が評判になったのは、庶民のうっぷんを晴らしたからだろう。
芳虎の生年は不詳とされているが「若餅」を描き上げたのは二十一歳ぐらいだったとの説がある。歌川国芳の門人として武者絵や歴史絵の絵師として名を知られつつあったが、この錦絵で人気に火がついた。ところが安政五年(一八五八)、絵師を廃業して「芳虎」を返上すると言い出した。国芳に破門を願い出て、認められている。それでいて、その後も絵師を続け、芳虎を名乗っている。
落首に乗っかって家康を風刺したり、自ら破門されてみたり、いまでいう炎上商法を地で行くようだ。まるで餅を食らっているのはおれなのさ、と言いたげだ。
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