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私のために花を編む

「君は早く言葉の世界を捨てて、自由になった方がいいよ。」

といつだかに言われた言葉が心に張りついて、取れなくなった。

文章が、書けなくなってしまった。

色々な物事に対して、色々思うところはたくさんあった。
でも何だか違う気がして、何回も書いてみては諦めて、書いてみては諦めてを繰り返していた。

一体全体何がダメなんだろうと、遠いところへ行ってみたり、音楽を聴いたり絵を観たり。
美味しいものをたらふく食べて、本を読み、映画を観ては、たくさんの人と会って話して、泣いて笑って数ヶ月。長い長ーい数ヶ月。

どうしても書けなかった。

何かについて特段怒っていないから?
誰かに恋をしていないから?
褒められ過ぎて飽きちゃった?

いざ何かを書こうとして、パソコンを、スマホを、ノートを開くとき、何度も何度も「言葉の世界を捨てて自由になる」が思い出されて、息が詰まった。

「君は早く言葉の世界を捨てて、自由になった方がいいよ。
みんなに分かるように書くと、分からなくてもいい人にまで伝わってしまう。
分かる人にだけ分かってもらえたら、それで十分なんだよ。」

そうかも、と思った。
たぶんすごく納得したのだと思う。
最近は書いている時に、読むであろう人たちの顔が浮かんだ。この人にウケそう、と思いながら一文を足したりなんかした。
媚び売ってどうするんだろうね、とその時心底思ったりもした。
うん、いい。分かってもらえる人にだけ分かってもらえたらいいや。

そうして、その言葉と、そこから思った諦めが張り付いて取れなくなった。
諦めの悪い私は何度も書きたくなってはそこに爪を立ててはみたけれど、それは固く固くこびりついて取れなかった。


さっき、遅めのお昼を食べにお店に入った。
ランチのピーク時はとうに過ぎているし、すぐに出てくるものかと思っていたら、ちっとも出てこない。
手持ち無沙汰になった私は、ちょうど読んでいた本の作者をグーグル検索、彼が遺したらしい名言集をぽやっと読んで待っていた。


そこで、見つけた。

「花のまま与えるのは自然であり、それを編んで花輪にするのが芸術である。」


これだ、と思った。


私は文章を書くのが好きなだけで、それでどうこうしようというつもりは全くないし、それが芸術だとは思わない。たぶん全然芸術ではないし。

でも、きっと、こういうこと。


みんなに分かるように書くと、分からなくてもいい人にまで伝わってしまう。
そうだ、当たり前だ。
みんなに分かるように書いてるんだから、みんなに分かってほしくて書いているんだから。

たくさんの感情や出来事がある。
固く目をつむって耳を塞いでしまいたくなるようなことも、ほっとしたと同時に衝動的に湧き出てしまった紛れもない殺意も、もどかしくてもどかしくて感じる心臓の裏のキュッとしたかゆみも。

その全部を分かってほしくて、誰かに伝わってほしくて、形に残しておきたくて。
言葉にする、文章にしたためる。


私は花を編んでいる。


言葉がすべてではないことは、よく、分かっている。
目線、声色、くるくると変わる表情、手の感触、沈黙、そして体温。
言葉がなくたって伝わることはたくさんたくさんある。ひょっとしたら、言葉以外のすべての方が正しくものを気持ちを伝えられるのかもしれない。

何も言わなくてもいいです、言葉にすると何だか歪んで違った形で変換されてしまうこともあるから。だなんて言ったりもした。本当にそうだと思ったから。言葉の世界がすべてだとは思っていないので、とも付け足した。

それでも、私は言葉の世界を捨てられない。

分かられたつもりの錯覚をしているのかもしれない。分かったつもりの錯覚をされているのかもしれない。
でも、それで私の背中をとんとんと叩いてもらえたら、誰かの背中をとんとんと叩けたら、私、もうそれで良い気がした。うそ、私はそれが良いのです。


自由とは何なのかを考える。
何からも縛られなければ自由なのかと考える。

花をそのまま与えたとしたら、それは自由?
花輪にすべく、いくつもの花々と絡ませて茎をひしゃげたら、自由ではない?

誰かと一緒にいるから自由なこともあるし、
一人なのに不自由なこともある。

私は結局、一人でいるのに、これから本当に一人になってしまうのに、不自由なままだったりする。


誰かのためになりたいと、よく思う。

そうして焦って、適当な花を見ずに掴んでちぎって大慌てで花を編む。茎が短過ぎたり、長過ぎたり、焦るあまり手元が狂って上手いこと行かずに歪な花輪を作ったり、作り損ねたり。

私はいつからか大きくズレていた。

誰がために花を編む?私のためです。
私が、私のために、綺麗な花を選んで、丁寧に摘んで集めて、そうしてゆっくり花輪を編む。

そのままで気持ちが伝わればうれしいけれど、花輪にした方がもっと気持ちが伝わる気がして、もっと分かってもらえる気がして、編んでいる。

「みんな」に分かってほしくて書いているのではなくて、「私」がみんなにもっと分かってほしくて書いている。


工場制手工業ではないから、花輪はたくさん編めない。
たくさんは編めないけれど、時間はかかるけれど、大きな花輪を編むことはできるはず。

花輪は丁寧にしっかりと編まないとすぐにほつれてしまう。

私がやるべきなのは、もろい花輪をたくさん編むことではなくて。
うんと小さくとも誰かを思い浮かべて大事に大事に作った繊細なつくりの花輪だったり、
たくさんの人に響けと念じながら作るうんとうーんと大きくてそれでいてすごく頑丈な花輪を編むことだったりするのかもしれない。


時間も労力も、有限だ。
私は私のために、手間暇かけて花を編む人でいたい。


#エッセイ #読み物

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