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ボルボラ疾走録:アウトプットの練習場

 先日やってみた「30分で4000字アウトプット」は思考のための良い練習になりそうだったので、ひとつシリーズとして立ち上げてみることにした。このシリーズの更新にあたって自分に課したルールは「執筆に使っていい時間は30分」「毎日更新」の2つ。なお、本気でタイマーで測っています。
 ここに更に「最低でも4000字は書く」を加えるとよりいっそう厳しく出来るのだが、無茶をするとかえって続かなくなるため、今は外しておく。そのうちこれを付けても平気になるかもしれないが。

 これをやろうと思ったのは、だいたい活字を書くことで生計を立てているような人たちは、アウトプットの量が凄いという共通点をそれとなく思い出したからである。質を無視して量産すればいいという単純な話ではないにせよ、量産できるというのは重要な能力のひとつに違いない。もうちょっと趣味の文字書きを錬金していけないかなあ、なんてことを考えている私としては、ちょっと身につけてみたい能力なのである。

 これはフィクション作家の例になるが、西尾維新深見真の創作速度はすさまじいと聞いたことがある。あと個人的には『ひぐらしのなく頃に』と『うみねこのなく頃に』で知られる竜騎士07の名前もここに加えたい。公式WEBサイトで制作日記を読んでたのだけども、とにかく毎日コンスタントに書き進めている様に感動と畏怖の念を覚えたものだ。あと誰か有名な小説家が「書ける時に書き、書けない時には書かぬというのではない。書けぬと思った時でも机に座り、とにかく何事か書いてみる。それでやっていけるのが小説家というものだ』みたいなことを言っていた記憶もある。(軽くGoogle検索したのだがいい感じに候補が出てこなかった。誰の言葉だっけ?)

 さて。最近、「職場におけるコミュニケーション」まわりで色々と書いたり喋ったりしている。日常会話などというものは、ほとんど無意識にやっているもので、もちろん私もその例にもれない。しかし、あえて我が身を振り返ってみて、「~という状況のとき私が……と言ったのは、~と考えてのことだ」みたいな形で言語化してみたところ、予想以上に複雑なことをしていると気づいた。このあたりを公開すれば、わりと一般に困り事が発生しがちなコミュニケーションに関して有益な知見を提供できるのではないか? そう考えて、ここのところ思いついたこと、気がついたことをちまちまメモに取ったりしている。

 私は、職場の同僚(だいぶ年上の女性)から、リアルに「ボルボラさんって凄いのよ! みんなから好かれてて!」と言われている。もちろんお世辞かもしれないし、「みんな」には何人か例外があるだろうとしても、自分が比較的この領域について優越している自覚はある。ただそれは、私がいわゆる世間一般的な「善い人」だからではない。むしろ、「善い人」などが「みんな」から好かれるのは不可能だといっていい。

 論語に『郷原は徳の賊なり』という言葉があるが、まさしくそうであり、徳の賊でなければ、例えばどうしてほぼ対立する価値観を持っている2名の両方から好かれることが可能だろうか? もちろん、かなりえげつないことをやっているのである。

 網羅的に述べている時間はないので(あと10分だ)、一例のみ挙げる。
 私は「AさんとBさんが相性が悪くて衝突している」という噂を聞きつけると、そのことをAさん・Bさん両名に好かれるための材料として利用する。簡単なことで、Aさんにとって「Bさんに関する批判」は耳心地がよく、Bさんにとっては「Aさんに関する批判」が耳心地がよい、という点を突くのである。

 もちろん、社会人としてあらさまな悪口を言うわけではない。あくまでも『常識的見地からの妥当な批判』を装う。というより、その方が露骨な悪口よりもかえって喜ばれるものだ。とりわけ「Aさん(Bさん)が批判されても仕方ないとする正当化のロジック」を用意すると、批判的検討など相手の頭からは消し飛ぶ。飛びつかない手がないからだ。言語化がおぼつかないために、「なんとなく鬱陶しく感じる」レベルの曖昧な世界に生きている人は特にこれに嵌る。「そう、そういう所がイヤだったんだよ!」と相手を納得させられればしめたものである。
 当然、「納得してもらえればいい」のであって、内容が真実である必要はまったくない。

 「衝突している」というのは一つの緊張状態であり、不快なものである。この状態への特効薬は、「自分を理解してくれる味方」の存在が確信されることである。ここで私のやり口が効力を発揮する。私は決して「Aさん」がBさんの悪口を言い始めてからそれに同調するのではない。この順序だと「無理して合わせてくれたのかもしれない」という不安が相手の頭を少しはよぎる。そうではなく、自分からAさんに話しかけにいって、自発的にBさんへの批判を展開するのである。

 私は衝突関係を知ってから批判するのだから、もちろんそこで繰り広げられる会話は偶然でも何でもない。すべてが必然である。しかし、「言われた側」にとっては一種のサプライズになる。「たまたま同じ意見の人」=「私」に出会えたようにしか基本的に思えない。

 考えてみてほしいのだが、自分が「Aさん」の立場だったとして、べつにBさんとあからさまな喧嘩をした直後でも何でもない、たとえば休憩時間の廊下のような場で、「ボルボラさん」が雑談の一環として「Bさんの批判」を展開してきたとき、「自分にゴマをするためにそうしているのかもしれない」などと疑えるだろうか。少なくとも、手口を知っている私自身でさえ、他人にそうされたときに気付ける可能性は非常に低い。やっぱり「たまたま同じ意見の人がいた」と思うだろう。

 簡単にいえば、私はこういうえげつない小技をひたすら繰り返している。もちろんこうしたことをすれば、潜在的な対立を深めてしまうなどのリスクもあるが、自分が困ったときに両方を味方に数えられるというメリットもある。このあたりを調整していく更に細かい技もあるのだが、とりあえず30分が経過した。本日は以上である。

(2,480字)

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