音楽スノードーム
長女のスマホデビューがきっかけで、1年前にSpotifyのファミリープランを契約しました。長女と夫は、サブスクの特性をうまく使ってどんどん好みのアーティストを新規開拓しているようですが、私は契約して1年たった今も結局、CD時代と同じアーティストの曲ばかり聴いています。
私にとって好きな音楽は、スノードームに似ています。音楽が流れ出すと、心の底に沈殿していた感情が、スノードームの雪のように舞い上がって、また新しい感情として降り注ぐのです。その感覚が好きで、私は音楽を聴いています。
多感な10代20代、私の心は、新しい風を待ち湧き続ける泉のようで、その泉に新しい歌が投げ込まれるたび、水面は大きく揺れて泡だって、その歌詞とメロディーに深く共鳴し、全力で吸収していきました。そうして音楽の力で、感情スノードームを、いくつも形成していきました。
そのころに深く吸収した歌たちは、今聴いても、あの頃と同じように胸が締め付けられ、あっという間に心の中でスノードーム現象が起こります。音楽とともに鮮やかに舞い上がって降り注ぐ感情を浴びながら、ああ、私にはまだこの感情を味わう心があったのだと、うれしいような切ないような気持ちになります。
かつて風を待つ泉だった私の心は、年を重ねた今、変化を嫌う村はずれの池、ところどころ沼化という様相。どろどろした沈殿物が多いので、新たなスノードームの形成は容易ではなくなり、ちょっとやそっと好みっぽい歌を投げ込んだぐらいでは共鳴しません。
ため池ところどころ沼化の心は、濁っているけれども案外ぬるくて生きやすく、泉だったころほどパワーを必要としません。だからもう若いころのように、たくさんの新しい歌を渇望していないのかもしれません。
若いころ私のスノードームになった音楽は、挙げていけばきりがないほどたくさんあります。最後に、その中でも自分にとって格別のスノードームソング数曲を、ここに記録してこの記事を終わります。
なぜここに記録したいのか、自分でもよく分かりませんが、たぶんただ、とっておきのスノードームを、ここに並べて眺めて、ちょっとだけ、誰かに見てもらいたいのだと思います。
スピッツ『ロビンソン』。このイントロだけでもう、今の立場も年齢も、何もかも、飛び越えてしまいます。小学生のころの通学路とか、当時乗っていた車の後部座席を思い出します。スピッツはどの曲も大好きだけれど、やっぱり、最初に心奪われたこの曲は格別です。
My Little Lover『Hello,Again~昔からある場所~』。これもイントロだけで、懐かしい場所に心が舞い戻ります。「君は少し泣いた? あの時見えなかった」、そんなことがこの曲を知ったあとの人生で、何度あったことだろう。
エレファントカシマシ『今宵の月のように』。エレファントカシマシを好きになったきっかけの一曲。「くだらねえ」という言葉から始まるなんて、かっこ良すぎるじゃないか。この曲に関しては、年を重ねるほどに染みるものがあります。
BUMP OF CHICKEN『天体観測』。初めて聴いたときの衝撃たるや、聴いてすぐ、いてもたってもいられずCDショップに走ったのは、後にも先にもこの曲だけ。もう、何度も聴きすぎて、自分も実際に、午前2時踏切に望遠鏡を担いでいったことがあるような気さえしています。あのころ「君」と天体観測はできなかったけれど、去年、娘たちと科学館の行事で天体観測をして、ついにその夢をかなえました。月は白くてでこぼこだったな。
ASIAN KUNG-FU GENERATION『君という花』。ギターの音と、日本語の響きの良さが迸る歌詞が、これでもかというほど大学時代の自分に刺さりました。ヘッドフォンを付けて、ぼーっと佇んでいた駅のホームが思い浮かびます。すべてが不安で不確かで、それでもうまくやっていける気がしていた、根拠不足の20代前半。
椎名林檎『月に負け犬』、この曲を聴いたとき、この人に付いていこうと思いました。歌詞に一文字残らず共鳴した。上京して最初に住んだ、水色カーテンの寂しいアパートを思い出します。時間がない中で、母が一生懸命に選んで契約してくれたアパートで、上手に暮らせていない自分が悲しくて情けなかった。
くるり『ばらの花』。高校のころ片思いだった人がMDプレイヤーで聴かせてくれたのがきっかけで、くるりを好きになりました。気だるくて少し尖った雰囲気が、10代の終わりから20代の始まりのころの心模様そのままです。この曲と、それから『東京』『ワンダオーフォーゲル』は、最高に甘酸っぱいスノードームです。
こうして挙げていくと、あれもこれもと浮かんできて、まだまだ挙げたくなるけれど、おしまいにします。たぶん一生、聴き続ける曲たちです。