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感情遅発型鈍感力

心が沈みがちのときは、生産性のない自己分析に耽ります。自分の内側がいちばん安全だから、自分を見つめ倒します。

私はどちらかというとたぶん、鈍感力のある人間です。GoogleのAIによれば、鈍感力とは「ストレスになりそうな外部情報を自分の中で溜め込まず、上手に受け流す力」だそうですが、私の場合のそれは、自分をそれらしく取り繕うのに必死すぎて感情が正しく機能していないために、誰かからひどいことを言われたり雑に扱われても、それを即座に痛みとして感知できず、そのまま時間が過ぎていくというだけの感情遅発型鈍感力です。
相手の様子から苛立ちや嘲りの気配をうっすら感じたとしても、自分が何かやらかしてしまったんだろうと思って、ますます取り繕うことに徹するため、その様子が結果的に、相手からすると優れた鈍感力の持ち主に見えるのかもしれません。しかし私の鈍感力は意識的に受け流すスキルではないため、家に帰ってから、あるいは数日後、時には数年たってから、あれ?あの時なんであんなこと言われたの?などと気づいて、急にズギャンとダメージを受け、その後長らく引きずるのです。

出産のために会社を辞めて数年たったある日、後輩社員で親しかった子に「あのころ、ぼろこさん、◯◯さん(同僚)から相当ひどい態度取られて、所長もさすがにあれはひどいって言ってたぐらいだったのに、よく笑顔で乗り切れましたね」と言われて、ぽかんとしたことがありました。当時、うっすら心地悪さを感じてはいたけれど、それは自分の立ち振る舞いが良くないせいでそうなっているのだろうとしか思っていなかったので、別に腹も立たなかったし、傷つきもしなかったのです。
しかし、そのときのことを後輩から言われたことで、あれは攻撃を受けていたのだと初めてはっきり分かって、その直後から、じわじわと心に痛みが広がりました。もう数年前の話なのに、いろいろな場面を思い出すと、気持ちが沈みました。周りが攻撃に気付いているのに自分が気付かないままだったなんて、私ってものすごい鈍感なんだなあと、悲しくて、情けなくて、そして笑えて。

その一件があってから、私は自分のことを、鈍感力のある人間らしいと自覚して暮らすようになりました。子どものころからの出来事を思い返してみると、これ以外にも、そういうことは数多くあった気がするのです。
ただ、常に誰にでもこの鈍感力が発揮されるわけではありません。完全に気を許している家族に対しては瞬時に感情が反応して、しっかり腹が立ったり悲しくなったりするので、それを相手に向かって全力で表明します。それから、素晴らしい文章やドラマに浸っているときなども、心は雨の日の水たまりのように、しきりにはねて震えます。つまり、私の鈍感力は、対外的な社会生活の場面においてのみ発揮されるらしいのです。
この感情遅発型鈍感力は、へこたれずに生きていくために私が無意識のうちに取得した技なのか、はたまた、私のコミュニケーション能力の低さが生み出した副産物なのか。いずれにせよ、この力のおかげで、泣いたり怒ったりせず、へらっと穏便にその場を乗り切れたことは数知れずあるはずだから、私にとってプラスの力であるに違いありません。舐められやすいのはちょっと嫌ですが、私のコミュニケーション能力が今後向上する可能性は低いので、今後もこれを武器にして生きていくことになるのでしょう。

先ほどから窓の外が、晴れたり、曇ったり、雨が降ったり、荒れています。山陰の冬に吹く風は、まさしく「どっどど どどうど どどうど どどう」。自己分析がはかどります。