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第三話「二人の最初の旅路」③

前回のおはなし⇓⇓


 振り返ると、座っているリズレが音を出していた。翡翠色の瞳は、月明かりの下で淡く輝いている。
「ぐ……る、る」
 熊がうなる。荒らげていた息が、だんだんと静かになっていく。対してリズレの不思議な歌声は、森の中に広がっていった。
 ふっと――その声がやんだ。熊はもう息を和らげ、心なしか目元も穏やかだった。
「だい、じょ……ぶ、ですよ」
 リズレはそう、熊に微笑みかけた。熊はじっと彼女を見つめると、やがて静かに身をひるがえし、ゆっくりと遠ざかっていく。
『森の民』――そんな単語が、頭に浮かんだ。
「動物とお話し……できるのですか?」
 ナイフをおさめながら訊ねると、リズレは困ったように視線を傾けた。そもそも、リズレは熊の姿が見えてはいなかったはずだ。
「よく、わからな……です。でも、あのこ・・・……おびえてて……それ、で」
おびえて――」
 確かに、いくらこの時期の巨灰熊が獰猛とはいえ、人間の声のする方へ自分から近づき、更には襲おうとするのはあまり多くはない。なにか、理由があるのだろうか。
「とにかく、助かりました。ありがとうございます」
 そう目の前に膝をついて礼を言うと、リズレはくすぐったそうに微笑んだ。その様子は先程までの神々こうごうしさを感じさせず、ふつうの女性となんら変わりなかった。

***

 それから明け方までの間、巨灰熊のこともあり警戒しながら仮眠をとったが、特に問題は起こらなかった。逆に、静かすぎる――夜間の森の中ではふつう野生動物の動きを感じるものなのだが、それが常より少なかったような気さえする。
「――そろそろ、行きましょうか」
 昇る朝日を見ながら、リズレに水で口をすすがせる。リズレは頷くと「おねが、します」と微笑んだ。
 リズレは、道中も嫌な顔一つしない。年頃の女性が、こんな山の中で野宿など多少なりとも嫌がりそうなものだが、そんな様子はおくびにも出さない。背負子で運ばれるのだって、疲れがたまってきているだろうに。私に遠慮しているのか、それとも元来の性格なのか。
(早く辿り着きたいことを考えると、助かるが……)
 リズレの四肢の壊死えしが少しずつ進行していることを思えば、できるだけ早く医師には診せたかった。だがそれで、リズレの体調を崩させては元も子もない。リズレが言いださない分、こちらで気を配るのは必要だろう。
 ――異変に気づいたのは、歩きだして三時間ほどした頃だった。背中のリズレが、少し震えているように感じた。
「どうかしましたか?」
「い……え。ただ、なにか……」
 リズレの声がうわっている。それから躊躇ためらうように、小さく付け加えた。
「こ、の……あたり。なに、か……」
「……」
『森の民』としてのリズレの力は、昨晩の当たりにしたばかりだ。もしかしたら、なにかを感じ取っているのかもしれない。
「……止まって、様子を見ましょうか」
「で、も。かんちが……かも」
「大丈夫です。私も、一旦休憩したいですし」
 そう、言いかけたときだった。踏み込んだ草原に、大きな影が見える。
「……ッ? これは」
 それ・・もまた、こちらを見つけたらしい。ズズズとこちらにいずりながら、長く太い鎌首を持ち上げた。
「――ッシャア!」
「ッ、道理で」
 それは、魔物だった。巨大な蛇の魔物――なんらかの影響を受け生じた変異種か。古木のように太く、頑強なうろこで長い全身が覆われている。すでに臨戦態勢なことから、好戦的な性質たちなのがうかがえる。昨晩の熊が怯えていたのも、こいつのせいか。
(放っておけば、近隣の村にも被害が及ぶな)
 ふつうの動物と違って、魔物ではリズレによる対話も難しいだろう。
「あ、の。くすりうり、さ」
「リズレさんはここで、少し待っててください」
 大蛇から目を離さないように、そっと荷物とリズレを地面に置く。鞄のポケットには、非常用の強壮薬が入った小瓶があり、それを一口含む。瞬間的に、動体視力や瞬発力を上げるものだ。更にナイフには極魔力アルマにより、振動魔力を付与する。
 ――極魔法アルマは基礎的な魔法とは異なり、術者の魂の性質や特性が深く関わってくる。私が過去、修練により身に着けたのは、あらゆるものに「振動」を付与――あるいはそれをコントロールするものだった。
(これで、いけるか)
 悩む間もなく、かくおんを上げながら大蛇が勢いよく嚙みつこうとしてきた。
「……ッ」
 強化された足で地面を蹴り、リズレから離れた方へ跳ぶ。すぐさま、蛇の尾がそれを追いかけてきた。ナイフの側面でそれを受け流しながら、もう一歩飛ぶ――今度は、内側に。
「――ッフ!」
 息吹と共に、ナイフを振るう。固い鱗に覆われた大蛇の身体だが、振動魔力により切れ味が増したやいばはそれを深く切り裂いた。同時に、強烈な生臭なまぐささが鼻をつく。「ぎぃぃぃぃっ!」と蛇が悲鳴を上げ、尾でこちらを叩こうとしてきた。
「っは!」
 振り下ろされるタイミングに合わせて、ナイフを突き立てる。深々とナイフが刺さった尾はびたんびたんと跳ね、更に傷を深くした。ますます尾がむちのようにしなり、そこらじゅうを叩き暴れる。
「――ッ」
 一瞬、尾が掠った手の甲に痛みを覚えるが――より強く、つかを握る。躊躇ちゅうちょしてすきを見せれば、すぐにでもその巨体に巻きつかれ、圧死させられてしまう。全身筋肉とも言うべきその身体を使い、まるでバネのように素早い動きで飛びかかってくる大蛇。その喉元に狙いを定め、下から大きく切り裂く。
「ぎ……ッ」
 ズドンと音を立て、蛇は地に落ちた。ぴくりぴくりと身体が跳ね、やがて静かになる。
「――リズレさん、お待たせしました」
 べとりとした体液で汚れたナイフの刃を、布でいてさやにおさめる。リズレは「だいじょ……です、か?」とおずおず訊ねてきた。
「えぇ。問題ありません」
 右手の甲はやや傷を負っていたが、そう深くはない。痛みこそあるが、指を動かすのにも支障はなさそうだ。念のため、神経毒に効く抗毒薬を打って、包帯で止血をしてから、荷物とリズレを背負い直した。
「行きましょう。目的地は、もうすぐです」
「……は、い」
 小さな声で、背中のリズレが頷いた。
 今だけは――リズレがこの光景を見られず、良かったと思う。
 きっと心優しい彼女は、深い傷だらけになり地に伏せる大蛇にさえ、心を痛め涙を流してしまうだろうから。


次回、第四話「遭難と光」①⇓⇓
11月27日(水)公開