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第四話「遭難と光」②
前回のおはなし⇓⇓
花のような、柔らかな甘い香りがした。ふっと目を覚ますと、すぐ目の前にリズレの顔があった。思わず、息を止める。
とれた宿は、しかし寝台が一つしかない部屋で、並んで眠ることになった。私は床で寝ようとしたが、リズレが「それなら自分が」と譲らず、このような形になったのだが。
(よく……寝ているな)
リズレは穏やかな呼吸音を立てていた。あどけない寝顔に、思わず頰が緩んだ。治療で触れたり観察したりすることはあっても、こうもまじまじと寝顔をただ見つめるという機会は、そうなかった気がする。
(私も……思ったより、しっかり寝てたのか)
山の中で歩き通しだったことと、転移の疲れとが重なったのか。ずいぶんと古い夢まで見てしまった。
(……懐かしいな)
イルダ人に石を投げつけられる日々を送っていた幼い私を助けてくれたのは、魔族――ハーフオーガである彼だった。人間に迫害される立場である人だったが、同時に強い人だった。あの人のおかげで、今の自分がある。
だからだろう――目の前にいる彼女を初めて見たとき、放っておくことなどできなかったのは。
すやすやと、耳に心地良い寝息。布越しの温かな体温。ほのかに感じる甘やかな香り。
――安らかな空気が流れている。
気がつけば。私はまた、誘われるように眠りについていた。
***
前を見つめる目が、息をする肺が。手袋をはめた指先も、雪を蹴るように歩く足先もなにもかも。全身が、凍った空気に刺されて痛みを訴える。正面から吹きつけてくる雪とその痛みのせいで、ただでさえ薄い空気を肺がうまく取り込めない。息が、苦しい。
「くすり、うり……さん。だいじょ……ですか?」
背中越しに気遣われ、私は「大丈夫です」と答えかけてから、素直に「すみません」と言い直した。
山道を歩く足が重い――身体が熱く、なにより全身が怠い。
(これは……天候と、疲れのせいだけじゃ、ないな)
私とリズレは、吹雪の真っただ中にいた。友人の館がある山嶺――その山道を、橇を履いて歩いているところだった。
ノースベイルから山の麓までは鹿車でゆったりと移動できたが、そこからはどうしても歩かないわけにはいかなかった。それでも歩き始めたときにはすっきりと晴れた空だったのだが、雪がチラつき始めてからこの空模様になるまではあっという間だった。
おまけに、この体調不良だ。
(ただの風邪なら、まだマシなんだが……)
蛇の魔物と戦ったときの傷が原因だとしたら、少し厄介だ。ただ休めば治るというものでもないだろう。やはり毒か、別の感染症か。回らない頭でぐるぐる考えたところで、どうにも解決策など思いつかないが。
(口にはしないが、降ろすこともできない状況が続いていてリズレさんだって辛いはずだ……どこかで、一旦休憩しないと)
視界が最悪な中、必死に目を凝らして歩くと、白い景色に紛れるようにして、微かに黒い色が見えた――洞穴だ。僥倖なことだと、私はそちらを目指した。
大した距離があるようには見えなかったが、実際にそこまで辿り着くまでにはかなりの時間が必要だった。
そんなに深い洞穴ではない。雪の下に深く埋もれた岩地が削れてできた、ちょっとした窪みのようなものだ。それでも、雪と風が遮られる分ほんのわずかに寒さが和らいだ気がし――その瞬間ドッと疲れが出て、倒れ込みそうになるのを堪えるのに必死だった。
まずはリズレと荷を降ろし、それから鞄の中から乾いた枝を取り出して火をつける。
「スープでも、温めましょうか」
そう、鍋を出しかけたところで手が滑り、地面に落としてしまう。ガァンと大きな金属音が、洞窟内に反響した。
「すみません、ちょっと……力が」
「だいじょぶ……です、から。むり、しないで……」
「無理じゃないですよ。でも……今夜は、ここで夜を明かすようかもしれないですね」
外から聞こえてくる雪風の音は強くなるばかりで、止む気配がない。おまけに、寒気と倦怠感は強くなっていた。右手がじんじんと痺れ、感覚が鈍い。
「こんなことになっちゃって、すみません……」
「いえ……そんな。きにしないで……ください」
リズレはそう言って、黙り込んでしまった。リズレもまた、疲れているのだろう。動けないまま吹雪に晒されていたから、身体だって冷えてしまったはずだ。
「――スープ、温まりましたよ。どうぞ」
言って、宿で分けてもらったスープをリズレの口元に運ぶ。彼女は一度ぎゅっと唇を嚙んでから、「すみません」と言葉少なに、それに口をつけた。
翌朝。吹雪が収まった山道を再び歩きだすことにした。積もったばかりの雪は柔らかく、橇を履いていても身体が沈みやすい。歩きづらいな……そう思いながら、身体を引きずるように進むが――それが雪だけのせいではないと気づいたのは、日が高くなり始めた頃だった。
目が眩むのは、太陽を反射する雪の光のせいかとも思ったが、違うらしい。私自身が昨晩からの不調を引きずっており、それが明確に表れている。
(過信したか――)
悪いクセだ。自分一人で、どうにかできると思い込んで、無理をして。注意もされていたはずなのに。
「すみませ……リズレさん、ちょっと――」
言葉も上手く出てこない。頭が回らない。でも、ただこのまま倒れるわけにもいかない。
(救難魔法を――)
指に魔力を流し、虚空にイメージを膨らませる。……ダメだ。まだ意識を失ってはいけない。彼女を、リズレを助けるためにここまで来たのだから。
なにもできずに、こんな場所で倒れるわけには――。
***
強い揺れと衝撃に、リズレは思わず目をつぶった。それから慌てて、自分をここまで背負ってきてくれた薬売りさんに声をかける。
「くすりうりさん……! だいじょぶ……です、かっ? くすりうりさん――ッ」
返事はなく、ハッハッと荒い息が聞こえた。おかしい――なにかが、起きている。
(くすりうりさん、どうしちゃったの……?)
分からない。背負子に括り付けられ身動きも取れず、目も見えない自分には……今は、なにが起きているのかさえ把握できない。
昨日から、薬売りさんの様子はおかしかった。背中越しの体温はいつもより温かく、呼吸が乱れているようだった。
「ちょっと、疲れてしまったみたいで……」
洞窟では、そう優しい声で言っていた。それなのに、リズレのために火を焚き、スープを温めて、食べさせてくれる。そんな薬売りさんのためになにもできない自分をもどかしく思いながら、一晩を過ごしたが。
「くすりうりさん……きっと、ぐあいが……どうし、たら」
どうして、こうもわたしは役立たずなの? 薬売りさんを助けたいのに。助けを呼びに行きたいのに。どうして一歩だって前に進めないの。どうしたら、薬売りさんを助けることができるの。
「わたし……ほんと、めいわくかけてばかり……やくたたず……っ」
そもそも、薬売りさんがここまで来ることになったのは、リズレを友人の医者に診せるためだった。それなのに、自分はなにもできないというのか――。
(そんなの、いやだ)
助けたい――この、優しい人を。
目の見えない自分は、この人の顔すら知らない。だが、心細く苦しい想いをしているところを救ってくれたのも、耳長と蔑まされる自分のために怒ってくれたのも、ぜんぶぜんぶ――。
(くすりうりさん、なんだから……!)
「こん、どは……わたしが……なんとかしなきゃ……!」
泣き言なんて言っていられない。絶対に、この人を。薬売りさんを、助ける。
――全身が熱くなる。森で、歌った夜と同じだ。身体中を魔力が巡る。
「くすりうり、さんを……たすけて……ッ」
カッと、目の前に光が満ちた。眩しすぎるその光に、リズレは思わず目蓋をギュッと閉じる。それは、自分の胸元から発せられる光だった。
(くすりうりさんにもらった、くびかざり……ッ)
救難信号。確か、それが備わっていると薬売りが言っていた。
首飾りはしばらく強く強く輝き続け、リズレの目が痛いほどだった。それでも、思わずにはいられない。
(もっと、もっともっともっと――!)
輝いて。いつまでも、ずっと。もっと強く。誰かがこの優しい人を助けてくれるまで。どうか、どうか――。
「……ッ」
ふっと、横になったままなのにもかかわらず、頭が揺れた気がした。目眩だ。
潜在的な魔力を一気に首飾りに注ぎ込み、枯渇する。それと同時に、首飾りは光を失った。パキリと音を立て、その宝石部が砕ける。
「だ……め。もっと……」
魔力の枯渇もそうだが、それ以上に半身が漬かった雪が、リズレの熱と体力をどんどん奪っていた。
(だめ……ねちゃ、だめ。まだ、くすりうりさんを……だれか)
リズレの意思と反して、限界を迎えた身体は今にもその意識を手放そうとしていた。
「くすり……うり、さん」
せめて、その身体に覆い被さることができれば、温めてあげることができるのに。目からこぼれた涙が、頰を横に伝って雪面に落ちる。
もしこの手が動いたら、せめて。手を。
「だれか……くすりうりさんを……たす、け」
その声が、音になったかも自分では分からなかったが。
その意識を手放す瞬間、リズレは誰かの足音を聞いたような。そんな気がした。
次回、挿話・一「空っぽの手を持つ青年」⇓⇓
11月30日(土)公開