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多数決【おそらく聞いたことがない話】

古くはローマ帝国支配下のユダヤ人自治組織においては、多数決によって規則を決めたり裁判を行っていた。ただし、「全員一致の議決(もしくは判決)は無効とする」というきまりがあったらしい。全員の意見が一致するというのは、全員がひとしく間違っていることを意味するのだという。

彼らにとって、多数決の場には必ず複数の主張が存在していなくてはならなかった。現代の私たちが考える多数決のルールにおいては、全員一致の意見は問題なく採用されるはずで、そこが少し違っているが、はたしてこのふたつの多数決のルール、どちらが優れているのだろう?どっちもどっちなのか?

上述のユダヤ式多数決は、複数の主張のなかからよりよい主張を選別する、という意味合いが現代日本の多数決に比して強く出ている。ユダヤ人の考える多数決の最大の意義とは「複数の主張の優劣を選別する」ということである。意見がひとつだけではその目的が果たせない。ゆえに無効なのである。ここで留意しておきたいのは、ユダヤの人々にとって、多数決はあくまでも、ものごとを決める際の道具として、実利的な感覚で用いられている、ということだ。

我々の感覚でいうと、多数決というのは合理的な手段であると同時に、倫理的にも正しい手段である。要は民主主義の精神に合致している。全員の意見が一致するというのは、民主主義的にいえば最も良い状態である。しかし、ユダヤの人々はそれを無効と考える。我々と昔のユダヤ人のあいだで少しずれがあるのだ。ユダヤの人々は多数決という方法を、欠陥があるということも知ったうえで、ものごとを決める際の道具として使っているのであり、多数決を使うことが、倫理的に正しい方法だというような感覚が薄い。

もちろんそれは、彼らにとっては多数決よりも何よりも、ユダヤ教こそが絶対真理としてあったためだ。彼らがユダヤ教の教義が正しいかどうかを、多数決で判断することなど、ありえないだろう。真理が存在するゆえに、多数決とは方法に過ぎない、という距離感を持ちえたというわけだ。ひるがえって、宗教の希薄な現代の私たちは、多数決を正義と信じるのである。宗教を信じる人々の思いの強さには敵うべくもない、ゆるい正義として。


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