肯定すること
気を抜けば、全てを肯定しそうになる
肯定と言えば前向きな行為に聞こえるが
肯定はある種の諦めだ
肯定は、簡単に楽になれる薬のようなもので
さらに怖いのが、中毒性さえも併せ持っているという点だ
我々はひとたび、
向き合っているソレを肯定してしまえば
考えることを中断できるのだ
とは言っても、
再出発の目処を持たない中断なので、
思考の放棄というよりかは思考の完結作業である
また、どんなに馬鹿な奴でも
全てを分かった装いで
偉そうに振る舞うことができるのが肯定だ
と肯定をぽつぽつ否定してきたものの、
現在の自分は肯定することを肯定的にみている
肯定は受容と救済への第一歩であるのだ
救済というと宗教チックになってしまうが
ここでの救済とは、日々酷使している心を
少しでも穏やかにする行為のことである
例えば、他者に対し自己の中で怒りが発生したとする
対象の生い立ちや家庭環境を考慮した上でも、
その怒りは正しいものであると言い切れるだろうか
その対象を形成した環境そのものに対して怒るのが道理にかなっているのではないだろうか
人は皆それぞれ違う考えを持っているということは当たり前だとされている
しかし、争いの穴を掘り下げていくと、
多くの場合、
単に考えの違いが原因であることが多いのだ
恵まれた環境で育った君に人殺しの気持ちが分かる訳がないように、政府のお偉いさんには君の気持ちはわからないのだ
このように他者と自己の本質的差異を認め、
肯定的に捉えることができるならば
他者を赦す大きな手段になるに違いない
また、他者を赦すことが自己救済に繋がるというのは言うまでもないだろう
しかし肯定をすべての人に押し付けようなどとは思っていない
肯定する権利は誰にでも平等にあるが
その権利を行使できるほどの
心の余裕の無い人が多いのも事実だ
更に皮肉なことに、
肯定はある程度の教養を必要とする
そういった点で、肯定とは実質、
豊かな心と教養を持つことが許された人々だけの
限定的思考体系であると言えるだろう
そう考えると、肯定できる資質を持った人々たちは
積極的に人を赦し肯定すべき立場にあるのかもしれない
そういった人たちには
もう少し気を抜いて、うっかり肯定してほしいものだ