「希望する自らの葬儀のあり方」

※課題メモ

現代の日本社会では葬儀の簡素化が進んでいると言う指摘があるが、この指摘の内容を「社会と葬送儀礼との関係」から説明し、その説明を踏まえた上で「希望する自らの葬儀のあり方」をそれがどういう理由からなのかの根拠を明らかにしつつ論じなさい。
という問いに対して

序論

〜一部省略〜
葬式という宗教儀礼の歴史を振り返り、それが行われる意義について考察することで自らの死生観を俯瞰することができたからだ。

本論

現代の日本社会では葬儀の簡素化が進んでいると言う指摘があるが、これは近年の日本社会の変容が原因であると考えられる。新聞資料(朝日新聞2014年7月30日“墓守が消える”)によると、都市部への人口流入と地方の過疎化、少子高齢化、未婚化が墓の荒廃を進めているとした。中でも、都市部への人口流入と地方の過疎化は日本における葬儀の簡素化と大きく関係しているだろう。授業でも触れられていたが、かつて日本は、地域の農家と連携を取り協力する必要のある稲作を行ってきた。しかし近年の科学と技術の発展により、地方に住む人々の多くは大阪や東京の都市部に居住地を移し、仕事を探すようになった。つまり彼らは、先祖代々土着の地で作物を荒らす害獣を退治することから離れ、大阪や東京の都市部で会社員としてパソコンと対峙しているのだ。会社勤務になると、地方での農業に比べ公私を一体化する必要性が薄れ、深い繋がりを持った交友関係は自ずと減少していく。人類学者のマリノウスキーは、「お葬式」を「死者への恐怖と思惑との葛藤・緊張を緩和させる機能がある」としたが、そもそも死者の生前の交友関係が狭ければ、必然的に死者へ関心を持った人間の総数も減るというわけだ。したがって、家族葬などの私的で質素な葬儀の形が増えていることから、現代の日本社会では葬儀の簡素化が進んでいると言えるだろう。

「希望する自らの葬儀のあり方」

結論から言うと、希望する自らの葬儀のあり方は無い。正確には、自らの葬儀が意味を持たないただの慣習として行われることがない、と言う葬儀のあり方を希望する。この私のひねくれた答えをあなたに納得してもらうためには、私の現在の死生観について説明する必要があるだろう。まず、「生命とは意識の分配と返還によるものである」という考えである。母意識の一部が子意識として、我々が言う“世界”へ流れてきて形而下の器に分配される。この器は人間に限定されたものではないが、人間で言うところの肉体である。意識は、肉体もしくは精神の死をもって母意識へと返還される、そしてまた子意識へと分かれ再分配されていく。無数の意識が、全ての瞬間にこのように巡っている。全てが1つの大きな意識であるため母意識と子意識という表現は不適当かもしれないが、今思いつく限りの言葉を当てはめただけなので理解してほしい。また、この循環により意識が淘汰されるといったことはなく、輪廻転生などの考えにある善悪、徳などと言われている生前の行いなどと「意識の分配と返還」は無関係であり、分配された子意識が認知しうる意味や概念を超越したものであると言える。生命とは、意識が分配され、そして返還されるまでの息継ぎなのである。と言うのが自らの現在の死生観であるが、この主張に根拠を求められると正直困ってしまう。なぜなら、様々な人との出会い、留学で知った異国の文化、今まで見てきた本や映画から得た知識、などの表層的な影響から、無意識のレベルで受けた影響なども含むと、自分の人格、そしてこの主張を形成したものを一概に決めることは難しいからだ。20年ほど生きてきた中で、私は学べば学ぶほど、考えれば考えるほど厭世的かつ虚無的な思考に陥ることが多かった。そして宗教が答えの鍵を握っているかもしれないと思い、調べてきたものの、自らを腑に落とすことができるような教えは今のところ見つかっていない。そして現段階でたどり着いた自分が納得できる答えは、“雨が降った地面は濡れる”といったようなポジティブでもネガティブでもない、ただの現象としての生命であった。なぜか自分は昔から生に対する執着が少なかったのだが(だからと言って死に対する欲求は特別ない)、最近ようやく、自分を癒してくれるのは結局感情や理性から離れた無機質な理論であることに気がついた。明日にもコロッと意見は変わるかもしれないが、とりあえず現在は生命についてはこういう風に考えている。以上の長ったらしいエゴの塊を読んで頂いたわけだが、詰まるところ、死後、自分がどう扱われるかに全く興味がなく、葬式なんかしなくていいよ、本気で。といったところである。ただ、家族や自分と親しくしてくれた数少ない人にとって、私の葬式をあげることで少しでも彼らの不幸せが減ったり幸せが増えるのであれば、それは大変意味のあるものであり、是非ともお願いしたいと思う。しかしやっぱり本音を言うと、もし死後も私の傲慢が許されるならば、葬式はなるべく質素に済ませ、使わずに済んだお金で、世界中で上手く息継ぎできずに溺れかけている人々を少しでも救ってほしいと考えている。これが私の「希望する自らの葬儀のあり方」である。

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