デネット/カルーゾー『自由意志対話:自由・責任・報い』
本書は「自由意志および責任は有意味な概念か?」という問題をめぐる、デネットとカルーゾーの討論の記録である。具体的に言うと、カルーゾーが「普通の人間が持つと思われている自由意志は本当の意味では存在せず、従って人間に責任能力はなく、責任を問うとか罰を与えるという行為は正当化できない」という主張を行い、それに対してデネットが批判・反論を行うという構成である。
元々自分は自由意志問題について強い関心はなく、デネットの数少ない翻訳kindle本ということで読んだのだが、カルーゾーが優秀な哲学者で、それゆえに哲学にありがちなバイアスを典型的に体現しているのが印象的で、それに対するデネットの批判が(少なくとも自分にとっては)的確で素晴らしく、全体として非常に面白かった。
科学的決定論と自由の関係というのは哲学で長く論じられてきた「重要問題」の1つであり、本書でも、自由概念を責任能力と結び付けて問題の焦点を絞る点においては伝統を引き継いでいる。(例えば、公園で犬が自由に走り回っている、というような「自由」は主題に含まれない。)
責任を問うことの要件としての自由意志の概念は、社会で広く受け入れられ、様々な物事に対する人々の態度・反応・行動に現われている。例えば、台風によって農作物に被害を生じたとして、台風に対して責任を問う人はいない。あるいは動物が農作物を食い荒らしたとして、その動物に対して責任を問う人はいない。社員が通勤中に交通機関の事故に巻き込まれて遅刻し業務に損失を生じた場合、通常はその社員に責任は問わない。人間の行為に対してのみ、かつ、するかしないかを選択できる側面についてのみ、責任を問える。このような、自由意志と責任の概念的結びつき自体は論争の対象ではなく、人間の持つ概念に関する単なる事実である。
自由意志否定のカルーゾーによる根拠付けは以下の引用の通りである。
自由意志否定論者としてカルーゾー(およびペレブーム)の特徴的な点は、その根拠を科学的決定論に依存しない点である。科学法則や神経科学的因果や遺伝子によって意志や行為が必然的に決定されず、一部偶然(運luck)に依存するとしても、どちらにしても本人がコントロールできないことに変わりはない、というわけである。このおかげで、科学的決定論の真偽に関する論争にあまり深入りせずに、問題の中心部分に集中できる。
カルーゾーも、自然現象と動物行動と人間の行為、というような日常的区別を否定しているわけはない。また、人間の行為に対して肯定的または否定的道徳的評価を行うというありふれた実践を否定してはいない。しかし、暴力や詐欺など悪いとされる行為に対する非難や罰の正当化根拠になりうるものは、それら悪い行為を抑止すること等を通じて、最終的には人々の幸福(well-being)を促進するというような未来志向の「結果」のみであるとする。そして彼が否定するのは、悪い行為にはそれ自体として非難や罰が報いとして相応しい、という「相応しさ」(desert)の概念である。
このようなカルーゾーの主張は、この概念を含む現在の社会的制度や慣習や実践の廃絶を要求するものではないとしても、それらの大規模かつ根底的な再解釈を要求する点で、十分反常識的かつ反直観的である。
これに対してデネットは、自由意志や責任や「相応しさ」の概念を、人間に必要不可欠なものとして断固擁護する。
山口尚さんはデネットに近い考えの人だが、この「相応しさ」の概念を「正義のバランス」と表現している。ある人が何の罪もない人を一方的に害し、その報いを受けずに平然として生きている、という状態はバランスが悪い、放置できない、という感情は、たいていの人は(子供でさえも)共有している。このような相応しさの概念は、人間に深く埋め込まれた動機づけ要因であり、そしてそれは未来志向的な動機づけ要因に還元できない。
例えば犯罪の容疑者が2人いたとして、一方が誰にでも親切な善人で、他方が人間のクズのような奴であり、後者が消えてもらった方が今後予想される不幸な被害者を減らせて世の中のためになる、というような場合、それでも罰すべきは無条件に真犯人の方である。もちろん、無実の人を罰するようなことをしていると法制度への信頼が毀損するという未来志向的考慮はあるとしても、誰かが冤罪に気付くかどうかといった結果への考慮によって判断がが左右されてはならない。
デネットも言うように、相応しさは非難や罰に限らず広く受け入れられている概念である。例えば、雇用契約の下で行った仕事に対しては報酬が相応しい。喧嘩別れで退職した社員には本音で言えば給料を払いたくないと思っても働いた分は支払わねばならない。社員が殺人犯と判明し、金銭を与えない方が世の中のためと思えても、やはり支払わねばならない。このように相応しさの概念は公正の概念と結びつき、おそらくは善悪の概念そのものの不可欠な一部でもある。カルーゾーが考えているであろうような、「野蛮な報復感情」の延長線上の存在ではない。
このような相応しさの概念に基づく道徳的感情が自然であることや、それと連携する道徳的責任のシステムが現に世の中で広く受け入れられていることはカルーゾーも認める。しかしだからといってそれが正しいということにはならないし、現状追認が不可避というわけでもない。そもそも自由意志自体幻想なので、「相応しさ」は論理的に維持しえない概念だし、実際廃絶した方が人々の幸福を増進する、とカルーゾーは言う。
確かに、主張が一見反直観的であること自体は、その主張が正しいかどうかとは関係ない。しかし正当化とか根拠づけというのは一体どういうことなのか。
この「正当化」という概念が、本書の議論を分かりにくくしている1つの要因である。というのは、本書は「自由な責任主体の行為に対する罰を相応しさによって正当化する」という、正当化行為自体の正当化が問題となっているからである。このような「メタレベルの正当化」をどう考えるかについての違いが、本書におけるデネットとカルーゾーの対立の核心にあると思う。
デネットは自然主義者なので、自由な責任主体や相応しさの概念を形而上学的に自立した実体のようなものとしてはもちろん考えず、人間の進化論的選択プロセスの産物として位置づける。人間は社会的動物と言われるが、それは人間が適応度を高めた最大の要因が、血縁関係を越える協力行動の進化だからである。単独の個体だけでできないことが集団で力を合わせることで可能になるというのは人間に限らない事実で、例えば戦いでは一般に多数の方が明らかに優位である。人間はこのような協調能力に特化して進化した動物であり、(異論はあるだろうが)言語もそれによって可能となっている。人間は情報交換や共有を行い、効果的に分業を行い、世代を越えて技術を伝承することで累積的文化を生み出し適応度を高めてきた。それらの一番大元にあるのが協力行動の能力である。このような協力でメンバ間で共有される目標と、各メンバの利己的な動機づけ要因を調整し、互いを信頼し、安定した長期的協力関係を維持するための概念装置として、道徳および責任の概念は進化論的に位置づけられる。
以上がデネットの基本的主張で、これに関してはカルーゾーにも特に異論はないと思う。
重要なのは、(当たり前かもしれないが)進化論的選択プロセスの産物であることによって、自由な責任主体や相応しさの概念が正当化される、とは、デネットは一言も言っていないということである。進化論的説明記述はもちろん正当化(根拠づけ)ではない。しかし、では正当化とは一体何なのか。
行為正当化の社会的実践自体の正当性を問うというメタレベルの行為はもちろん可能であり、これも人間進化の産物である。言語に支援された反省的思考能力、つまり思考について思考する能力は、協力と同様人間を特徴づける最重要能力の1つである。人間は自分の持つ概念や欲求やバイアスなどを必要に応じて自覚し、自分や社会のあり方を理解し改善することができる。この能力は他の動物とも共通するような遺伝的能力基盤よりも上位の層に属する。しかし上位層だからと言って下位層を支配できるわけではなく、むしろ下位層に依存寄生している側面が大きい。このような進化論的連続性を明確化することを通じて、意識的・理性的・反省的思考の過大評価を批判したのが、デネットの良く知られた重要な仕事の1つである。
デネットは、自由な責任主体や相応しさの概念を、進化論によって正当化しているのではない。進化論的な多くの知見を通じて、それらが人間に組み込まれ重要な機能を今も果たしていることを理解し、またそれに対する帰結主義的正当化があることなども踏まえて、(あえていえば)単に受容しているのである。
カルーゾーのような哲学者は、行為正当化実践に対するメタレベルの正当化が「本当の意味での」「究極的な」「最終的な」正当化だと考えているので、デネットの立場がよく分からない、あるいは煮え切れない中途半端な態度だと思われるのだろう。しかしデネットに言わせればカルーゾーは、反省的思考(=上層部の思考)の過大評価の典型例である。
デネットは本書で、(例えば「人は自分の存在のあり方に対する究極の責任を有することはできない」などという主張に対して)多くの哲学者の「究極の」責任、という概念への固執を批判している。実際本書(kindle版)内で「究極」という言葉を検索すると30件見つかるが、これは「真の意味での」等と同様、いかにも哲学者が好きそうな強調表現であり、変な方向に誘導されないよう十分注意が必要である。
(そもそも人間の人生においては、遺伝子から反省的思考まで様々なレベルの動機付け要因=目的が存在し、それぞれある程度の自立性を保ちつつ並存しているのであり、それらが究極の最終目的に向けて収束しているわけではないが、行為正当化実践についても同様で、究極の正当化など無意味だと思う。)
戸田山和久さんは、『哲学入門』7章で、デネットの進化論的説明には概ね賛同しながらも「人間的自由は、役に立つフィクションだ、本当はないんだけどわれわれの社会を成り立たせている共同幻想だ、という立場に限りなく近づいてしまっているんじゃないだろうか」と不満を表明している。これもメタレベル視線偏重の一例だが、同時に、自由な責任主体の概念を進化過程における上層部に位置づけ過ぎた見方だと思う。実際は、この概念はデネットも言うように遺伝子と社会・文化との共進化(=ボルトとナットのような相補的選択)の産物であり、人間の遺伝子および本能レベルに埋め込まれた強固な基盤を有するので、表層的ミームとはかけ離れている。
先ほど書いたように、一般的に協力が個体の利益になる場面は人間に限らず存在する。トマセロによると、チンパンジーも共同で役割分担して集団的に狩りをすることがあるらしい。しかしその協力の成果物である獲物の肉を分配するという最終局面で、自分さえよければ良いという利己性が露骨に現われ、成果物を独占しようとする。このような結果が予想可能なので、協力行動がそれ以上進化できない。逆に言うと、協力行動が進化可能になるには、このような遺伝子レベルの強固な利己的動機づけを必要に応じて制御すること、いわば動物としての一線を越えることが必要であり、それを可能にするのが人間の協調本能である。
トマセロによると、言葉をまだ話せない小さい子供でも、(物が見つからないとか物に手が届かないとか)大人が困っているのを見ると助けようとする行動が見られるそうで、援助の動機づけおよび相互期待に関して、教育を受ける以前の段階ですでにチンパンジーなどと一線を画しているそうである。自由な行為主体の概念も、利己性の限界に対抗できる協調本能および能力という遺伝的基盤の支援の上に成り立っている。
そもそも自由な行為とは何か。直接的に言うと、自由な行為とは、遺伝子と社会・文化の共進化(=相補的選択プロセス)によって結果的に設計(design)された人間の行動制御システムが、設計仕様に従って引き起こした行為を意味する。そのようなシステムは、他人も同様に設計されていることを前提する環境で、社会制度や規範や慣習と連携して可能な限り適応度を高めるように設計されている。従ってそれが科学法則や神経科学的因果によって決定されていても別に構わないし、むしろ多くの側面で予測可能である必要がある。
人間は、遺伝子に直接由来する欲求から社会規範まで、様々なレベルの動機づけ要因に優先度の重みづけを行い、関連する情報の確定不確定の程度も踏まえて行動し、短期的長期的様々な目的を実現するよう設計されている。例えば刃物で脅迫されて行為を強制されるような場合でも、脅迫者に働きかけるあるいは逃げる機会を探すなど、状況打開方策を考えることができているなら、行動制御システムが設計仕様通り動作しているので、その範囲内で自由であると言える。しかしパニックで思考停止状態になっているのなら、行動制御システムが止まっているので自由ではない。
人間の行動制御システムについて重要なのは、先ほど書いた「他人も同様に設計されていることを前提」という点である。従ってデネットも言うように、自由な責任主体であることのハードルは低い。端的に言えば、自由な責任主体であるとは、協力活動含む共同生活のメンバとして期待可能ということであり、つまり社会の一員、一人前の大人として扱われることである。
では、カルーゾーのような自由意志否定論が、一見反常識的なのにも関わらず一定の支持を得ているのはなぜか。
デネットの擁護する自由な責任主体の概念が、人間とともに進化し重要な機能を果たしてのは確かだろうが、だからといって人間が本当の意味で自由な責任主体であるとは言えない。と彼は主張する。
確かに、自由な主体といわれても、行為に関して個人がコントロールできない要因があまりにも多いような気もする。例えば、どんなに沢山お金を持っていても、低い身長を高くすることはできないし、悪い頭を良くすることはできないし、つまらない人間を面白くすることもできない。
しかしもちろん、そんなことがコントロールできるようなら逆に恐ろしい。
人間にとって頭が悪いことは致命的で、馬鹿は救いようがないと思われるかもしれない。しかしいくら頭が悪い人間でも、チンパンジー以下ということはありえない。というか、もちろんそのような比較は意味をなさない。
繰り返しになるが、自由な責任主体は人間と他の動物との本質的区別に関わる概念である。
生まれつきのサイコパスや、性欲が強過ぎて制御困難な人がいるとして、彼が自分で選んでそうなったのでないのは確かで、そのこと自体が責められないのも確かだが、そもそも自由意志はそのようなレベルの概念ではない。
カルーゾーは、自由な責任主体や相応しさ(desert)は虚偽かつ有害な概念であり、正義の理論から排除すべきであると主張する。そして正義の理論は人間の幸福(well-being)という本来の目的に向けて再編成すべきだと主張する。彼によると、人間の幸福は、健康・合理性・自己決定・愛情・安全・尊重を受けること、という6個の要因からなり、これらの実現が正義の果たすべき役割だという。
しかし、そのように要因を列挙するぐらいは何とか可能かもしれないが、その要因それぞれについて概念の意味を管理できるような専門家はいないし、要因全てを踏まえ、優先度の重み付け含め総合的評価を行い行為に適用するという最終局面は、熟練や直観といった前反省的反応能力に制御されており、専門家や理論家の出る幕はない。
正義や善悪や自由などに限ったことではないが、人間にとって基本的な概念を表すような言葉に対して、定義や定式化などの形で意味を与えることができると考えるのは一部の哲学者の思い上がりである。
それらの意味が人間の歴史含め現実世界に深く根ざすあり方について多くの理解を与えてくれる点で、私はデネットを断然支持する。