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渡邊渚 著『透明を満たす』の感想と応援
この記事を着想してから、書き上げるまで一週間経ってしまった。腹の底から湧き上がってきた怒りをどうにか御せるようになるまで、それだけの時間がかかった。
ゴシップなんて、ニュースなんて、他人事だしどうでもいい。普段そう感じているはずの僕を、ここまで怒らせる事象がまだこの世にあったとは、自分でも正直、驚きを隠せずにいる。
きっかけはコロナ禍だっただろうか。テレビというものをほとんど観なくなった。
未曾有の状況下に日々更新される情報の波に疲れてしまったのと、当時は何を見てもネガティブな感情が煽られるばかりで、観ることで自分の機嫌が損なわれていくような気がしていた。
ニュース以外にも、面白いとされる番組が放映される時間帯は自分はまだ仕事で、家にいないことの方が多かったのもある。テレビを見ないことで世間から取り残されるとか、時代に乗り遅れるとかの不安は別に無く、余計なノイズを減らすことで自分が上機嫌でいることの方が何より大切だと気づいた。これまでの経験から本当に知るべき情報は、いつだって向こうのほうから飛び込んでくると知っている。殆どのニュースは、知る必要のないものだ。
そんなふうに生きているものだから、著者の渡邊さんが現役のアナウンサーだった時はすでにテレビを観なくなっており、申し訳ないのだが全く番組を見たことがない。だが、いつしか見かけたネットニュースの記事と、最近世間を賑わせている事象が、ちょっとした興味で調べたYoutubeで繋がってしまった。他人事の筈なのに、知った瞬間、全身の血が逆流するような怒りや、やるせなさが襲いかかってきた。自律神経は一時的に過興奮に陥り、数日間、横になっても熟睡できない日々が続いた。そこまでの衝撃を受けたのは、おそらく自身の経験にリンクしてしまうテーマだったからなのかもしれない。それが本書の発売前日の事だった。本人の言葉で、本当の気持ちを知りたい、知らねばならない。そう感じた。読了後、心からの感想を伝えようと開いたInstagramのコメント欄が、想像以上に荒れていた。これだけの苦しい経験をした人に投げかける言葉が、意味不明な論理と稚拙な暴力性に溢れていた。一部の日本人の民度はすでに畜生以下なのかもしれないと感じた。「真実」らしきものを知ってしまった自分には、そうした言葉をぶつけられる精神性が理解できなかった。握っている情報量の違いだと信じたかった。ヤク中の性犯罪者の肩をそれでも持つのか?それで後悔しないのか?不思議でならなかった。
自身の身に具体的に何が起こったのかなんて、著者は知られたくないだろう。僕が観たのも真実の全体像ではないのかもしれない。僕も知らなければ良かったのかもしれない、その点に関しては誠に申し訳ないと思う。ごめんなさい。
ただ、うっかり知ってしまった今、この気持ちを言わずに秘めておくことも難しい。
あなたの身近に性被害を受けた人はいるだろうか。僕は、この話を知ってしまった時、親戚から性被害を受けた高校時代の友人や、異性からの暴力に遭った古くからの友人がふと頭に浮かんだ。いずれもその時力になれなかった自分を不甲斐なく感じた。思い出すだけでも、役に立てなかった悔しさが込み上げてくる。今後の人生では遠くの誰かを救うことはできなくても、身近な人たちには笑顔でいてもらいたい。本書を読んだのは、勇気を出してその経験を発信してくれた著者と本書に、そのヒントを求める気持ちがあったように思う。
著者の生い立ちから始まるこの本は、牧歌的な新潟の風景から始まる。自然豊かな田舎でのびのびと過ごす中、教育熱心な母親による古典の素読、子ども時代からの自制心の強さ、物事の本質に対する関心、中越地震を経ての死生観など、著者の人となりが少しずつ明らかになる。聡明さと我慢強さが文章の端々に見えてくる。
就職して、その我慢強さが裏目に出てしまったことも。完璧であるために、無理を押した結果、体と心が乖離する。自分の本心に気づかなくなってしまっている。
著者だけではない、現代なら、誰の身にも起きうることだ。
そして、その乖離が、悲しい結果を引き起こす。この性格を他者に悪用されれば、そうなってしまうかもしれない。そんな想像がつく。別に欠点ではないのだ。そこに悪意で付け込む他者が100億%、絶対的に悪い。
本書には当日の詳細な描写などはない。でも、その後の著者の心身を蝕む様々な症状が、存分に事の異常さを物語っている。こうした手記を出すことには、もしかしたら想像を絶する負担がかかったのではないだろうか。思い出すのも辛い体験を一つ一つ自分の中から汲み上げては、言葉にしていく。書くことで自分を客観視することができるのは確かにそうだが、思い出すという行為は一旦自分の感情を追体験する行為になる。本書に出てくる持続エクスポージャー療法も、近いものがあるかもしれない。
著者がそんな中勇気を出して書いてくれた本である。読むこちらとしても、それ相応の覚悟が問われる。辛い経験をした人は、それを思い出してしまうかもしれない。健康なはずの僕ですら、かなり客観的で、冷静に書かれた本書であっても一読目は感情が流れ込んでくるようで、読みながら涙が溢れた。決して感情的な本ではない。著者もかなり自制の効いた人物だと感じる。だからこそ、言葉にならなかった思いが行間に詰まっているのだ。読むのが苦しいとまでは思わないが、読み進めるごとに、深く何かを考えずにはいられない。
だが、これらの感情も、著者の経験した痛みや悲しみ、悔しさなどの比ではない。だからこそ、ほんのひとかけらだけでも、著者の感じた辛さを本を介して分かち合えるのなら、嬉しいとすら思う。もしこれが、自分の大切な姉妹や、愛する娘に、大切な友人に起きたことだったらと想像する。自分の愛する人が身体も精神も傷つけられ、一生癒えないかもしれない経験を負ってしまう。自分だったら、血の涙を流しながら、その後の人生全て放り投げて、復讐のために全てを捧げてしまうかもしれない。本書を読むにこれだけ忍耐強く、自制の効いた著者が命の危険を感じてPTSDになるほど、圧倒的なキャリアと名声を恣にしてきたはずの加害者がその全てを捨ててでも引退という形で逃げなければならないほどの事象である、生半可な出来事であるはずがない。嘘だという意見もある、嘘だったらどんなにいいかとすら思う。苦しむ女性はいなかった、それだけで済むのだから。
本書の後半、著者の回復の過程が描かれる。曇り空の心模様を少しずつ振り払い、一歩ずつ、時に後退しながらも、歩みを止めない。意外に思ったのは、誰かのせいで陥った病気であっても、著者が責めてしまうのはいつも自分である点だ。思うようにいかない体、フラッシュバックを続ける心、そうした状況の矛先が、加害者であっても何一つおかしくないところですら、自分を責めている。原因と責任の主体が無意識になのか、分たれているのは著者の思考の癖かもしれない。そしてこの思考の癖が、おそらく世間の想像を超えた回復の早さに繋がってくる。
責任の主体である他者を責め続けることは、被害者の反応として何も間違っていない。当然だと思う。ただ、著者本来の性格なのか、現状の責任をコントロール不能な他者の挙動ではなく、思うようにいかないとは言ってもまだコントロール可能である自分に向けることで、弱った状況で限られたエネルギーを、自分を回復させることに全集中してきたのだと思う。それはきっと、病で休んでいる方がまだ楽かもしれないという程の過酷な道のりだっただろう。そんな状況においても、周りの人の温かさを受けとめ、スモールステップの目標を定め、少しずつでも前進を続ける。その姿はとても眩く、病人ではあっても、根本的に弱者ではないのだとすら感じる。
そんな著者に寄せられた批判的なコメントを見ると、どこか現実を歪めてでも、著者を否定したい、傷つけたいという結論ありきで組み上げられたもののように感じられる。それは逆恨みとは思うのだが、推しが引退せざるを得ない状況に陥った原因を攻撃したいという思いかもしれないし、仕事は苦しくて嫌なことを耐えるものと感じている人が、一足先に自分の心に正直になることに気づいてしまった著者への羨望や、そこを認めてしまうと自分が必死で守っているものが崩れてしまうかもという危機感なのかもしれない。また一方では自分の会社が窮地に立たされた事の怒りなのかもしれない。
そんな罵詈雑言すら、開かれたコメント欄で受け止める。著者はもはやこの程度の人間達に傷つけられるようなレベルではないのかもしれないが、やはり人間は気持ちに波もあるし、うっかり調子が悪い時に見たら自殺を試みてしまうかもしれないと思うから、看過はできない。
僕としては、これだけの経験をした人が、まだ完全回復には遠く、紙一重かもしれないが、生きることを選択してくれたことを本当に嬉しく思う。日本の希望だとすら感じている。もし今後中傷で本人が死を選んでしまうようなことがあれば、それは辛うじて文明国を保っている今の日本が、根本的に敗北する瞬間だと思う。
世の中には実に多様な人がいる。加害者に同情し、肩を持つ人も僕は相容れないが、最大限理解しようとは努めようと思う。
そもそも、根本的にどんな人であっても人間は美醜の両方を有しているものだと思うし、おそらくその見方は外れていないと感じる。ある人物の圧倒的な魅力に隠された人間性のB面が、狂気的な性癖や残虐性であることは、全く矛盾しないのだ。人はそれぞれ、魅力の大きさと同じだけの欠点を負う。それが顕在化し問題になるかどうかは、それを無かったことにしようと切り捨てるか、欠点も自分の一部として素直に受け入れるかの違いだと思うのだ。
自分の欠点だけを切り捨てることは、コインの表と裏を切り分けるようなものだが、切り分けたコインは価値を持たない。不特定多数ではなくて良いが、数人でも弱さを曝け出し、本当の自分になれる相手を定めなければ、いつしか闇が暴走する。
そうして起こした身の破滅は、生涯自分を蝕む十字架になる。
失敗は取り消せない。起こした罪は無かったことにならない。
できることと言えば、命が続く限り、一生消えない罪を背負って残りの人生を生きるしかない。
だからこそ、本書の結論である「自分の本心を尊重」できることがとても尊く、素敵なことだと思うのだ。これからの著者は、長く続く人生で、自分の内なる声に耳を傾け、その都度誰にも遠慮しない、その時自分が良いと信じる選択を続けていくだろう。時には失敗するかもしれない。だがそれすらも祝福なのだ。長い道のりをかけて、必要な時には弱味を明かし、間違っても良いスタートラインに、ようやく立てたのだから。
著者の今後の人生が、数多くの幸せに溢れ、輝かしい歩みとなることを、心より願っている。