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レティシア書房店長日誌

八木詠美「休館日の彼女たち」(新刊1540円)
前作「空芯手帳」で世界中で注目された八木詠美の新作です。これ、人には伝えにくい不思議な世界を描いていて好みの分かれるところですが、私は、この世界に見事にはまり込んでしまいました。

大学の恩師から、奇妙なアルバイトを頼まれたホラウチリカさん。博物館の休館日に出向き、そこに収蔵されているローマの女神であるヴィーナス像の話相手になることで、条件はラテン語の会話ができることだけ。えっ?ヴィーナスが話すの?ラテン語で? 私も最初は戸惑いました。

ホラウチリカさんが初めて展示室に行った時の描写は、こんな感じです。
「神話のような部屋だった。ドーム状の天窓から光が絶えず射しこむ中、彼女たちは星座を浮かべるみたいに台座に佇んでいた。こちらを睨みつけるヘラ、猟犬を連れたアルテミス、鎧をまとったミネルヴァ。ギリシア神話やローマ神話の女神たちが八人。古代ギリシャ語だろうか、あるいは別の言葉だろうか。血の気のない白い唇たちが退屈に任せてレース模様を織りなしていく。その饒舌な模様が重なり合って落とす影の先、八角形の最も奥に彼女はいた。」

そして「あら失礼、とヴィーナスは口を開く。」そこから読者もヴィーナスとおしゃべりをする二人だけの空間に放り込まれます。誰もいない博物館。向かい合う彫刻作品。窓から射し込む淡い太陽の光。なんだか素敵な空間ですよね。しかし、当のヴィーナスは「どんな絵画も彫刻も一晩の夢の美しさには及ばないわ。そこでは別に誰かになれる、別のどこかに行けるんですもの。私は私の果てしなく続く時間から逃れられる。」と、ここに居続けることへの苛立ちを口に出します。

一方、ホラウチリカさんには、小学校の時に不思議なことが起こりました。フードとポケット付きの黄色いレインコートが体に密着していることに気づくのです。「着ている、と私は知った。私は洋服の上にばかばかしい黄色のレインコートを着ていた。」え?え?勝手に服が生まれてくる? これってSF?あまり深く考えずに、彼女はいつもレインコートを身につけていると考えて、読み続けましょう。

彼女とヴィーナスの閉ざされた関係は、邪魔者が入ったりするものの、穏やかに続いていき、どこかセクシャルな雰囲気さえ漂ってきます。有機物である人間と、無機物であるヴィーナス像が、その境界を超えてコミュニケーションを成立させてゆく。おとぎ話のような世界が展開するのですが、他者とのより良い関係を結ぶことの難しさが日々高まっている今、色々と考えさせられる小説でした。

ラストの展開は伏せておきます。最後までこの関係を見守ってきた人には、手を取り合って新しい世界へと飛び出してゆく二人を拍手で見送れるはずです。”good luck"と声をかけたくなりました。

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