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『文学と悪』②/第2章ボードレール
このボードレールの章は見慣れない単語が散見されるためちょっと厄介です。
しかもこれを読んでいる頃ジャンプ本誌で『呪術廻戦』がクライマックスであったため、
「ボードレールの能力は"超越による自己の抹殺の拒否"ですって…!?」
「本来なら従属をせざるを得ないこの限定に対して、自己を保ち続けられるっていうの…?
あり得ないわ…!」
という感じで戦闘中技の説明を丁寧にしてくれるキャラのセリフ調で考えてしまうのが困りものでした。
鎮まれい我のジャンプ脳。
黒王号を頭に飼う、読む子です。
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(※『呪術廻戦』は現在本誌で完結し、未だひどいロス状態に悩まされています。)
さて、まずこのボードレールの章は、
先にサルトルにより発表された論考に対する書評に加筆修正されたものであり、
例えるなら
ラップバトルを編曲してアルバム追加したものと言っても差し支えないわけです。
(大いに差し支えるがそこはご愛嬌)
そして、地元のデキるパイセン(先輩)サルトルに挑む反骨の挑戦者、バタイユはまさに『8マイル』時点でのエミネムと言っていいでしょう。
(全然よくない)
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なので前半はサルトルによるボードレール評をもとに、サルトルの思想を説明しつつ、
それらに肯定・否定をしながら自分の論理の展開の準備をしています。
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なのでこの段階の文章にはあえて深く突っ込まずに、
章全体を通してバタイユは何が言いたいんじゃ、
というところに焦点を当ててみました。
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サルトルはボードレールの文学における態度に対しこう言います。
「ボードレールは天才を”意のままに再び見出された幼年期”と定義した。
確かに、子どもにとっては全てが新しいものだが、それはすでに他人によって見られ、名づけられ、分類されたものである。」
「未知の領域を探検するどころか、
幼年期のこの絶対的な安全に、ボードレールはノスタルジーを抱いているのだ。」
「それは真に”創造的”なものでありうるのか?」
乱暴に言い換えてしまえば、
ボードレールの態度、それはあくまで
「家庭内で守られた子供が親に対してする反抗に相違なく、
家の中という安全性や、守ってくれる親がいることが前提とした”幼年期”をもって、
駄々を捏ねているだけなんでないの?」と。
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だからこそ、ただそれへの対抗を望みつつも、
対抗するために必要な相手を尊重しているじゃないか。
子どもじみた逃げに近しいんじゃないのか。
というのがサルトルの意見です。
ここでサルトルはステージ上に激しくマイクを投げつけ、バタイユの出方を見ます。
(注:強めの脚色が入っています)
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すぐ変えてやるそれが俺のイズム。
さてバタイユのそもそもの考え方はこうです。
「現代における人間の実存は、
”有用な財産の生産に縛られた”労働の主体としてのありように制限されていないか。」と。
つまり
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「この世知辛い世の中(当時の西欧社会)。
あなたのいう「子どもの能力」が「大人=成年」が持つべき理性の欠如として罪深いものとみなされるのであれば、
その有罪性をはらむ選択を覚悟を持って選び取ったボードレール。
非力ゆえに選ばざるを得なかったわけじゃない、進んで選び取ったんだ!すごいじゃないですか!」
「そりゃまさに”大人=行動”(生産)に対して、
行動性を持たない(非生産的)という文学・詩の態度そのものですよ!」
そう、
バタイユはこのアンサーを、しかけられたバトルに対するただの答えとしてではなく、このボードレールの選択、詩の選択ってやつは、
単に社会の歯車ではない人間の選択なんじゃないかというところに展開させ、本のテーマにまで昇華させたのです。
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「我々は絶えず、時間の観念と感覚に打ちのめされている。この悪夢から逃れるには二つの手段しかない。快楽か労働か。快楽は我々を消耗させる。労働は我々を頑健にする。選択すべきだ。」
ボードレールは何かに「対抗」するでも「反抗」するでもない。
それ自体の他に目的を持たない純粋な「拒否」である。
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ここで説明すると、そんな選択をしたボードレールが置かれていた社会とは、
「全盛時代の資本主義社会、労働の収益の最大限を生産手段の増大にあてるといった資本主義社会」
であったわけで、
文学にはまだそれに反論できるような力はありませんでした。
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ボードレールはそんな中「反逆」などという材料を用いず、
ただひっそりと己の努力の虚しさというところから引き出し、
その虚しさから追い詰められた詩人の精神状態を、
弁護の余地もないその不可能な姿のままに、表現することしかしなかった。
のです。
この点をバタイユは
でっちあげた悪よりよほど悪の名に相応しいものではなかろうか。
と述べています。
簡単に知ることのできないもの、掴むことのできないものをなんとか言い表そうとするための苦肉の策である詩は、
文章として出来上がってしまった時、
本来
「つかむことのできないものを文字に落とし込み固めてしまった」
という矛盾を同時に持つことになります。
「滅ぶべきものを対象にしていながら、詩は、それを永遠のものに変換させる」
そんなジレンマをはらんだ詩の真正性を立証してくれるものは、
上で触れた虚しさから追い詰められた精神状態、
→詩人の長期に渡る死苦
だと、バタイユは言うのです。
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加えてボードレールの偉業とは
詩を、初めて外部から押し付けられる諸要求すなわち意思の諸要求にキッパリと背を向け、自分を眩惑するものと結びつけ、意思の反対物とする内心の要求だけに対応するものとした
ことであると言いました。
どんな材料も使わず、どんなものの材料にもならない。
ただ純粋な「うめき声」を持って詩を書くことを選んだボードレール。
理性を持ち、経済に対する行動をする大人しか認めない社会に対し、
無限定の子供らしさ、
固定的なものを絶えず否定する子どもらしさ、
これらにどこまでも忠実であり続け、
そうであるがために自己への断罪を繰り返して苦悩する。
これは『文学と悪』①でも触れた
引き裂かれた自己
を体現していると言えます。
社会に対して有益なものだけが
果たして人間の本質に肉薄しうるものなのだろうかと言う問いに関しては、
『呪われた部分』と言う著作においても
「経済的合理性の範疇に収まらない消費・蕩尽にこそ、人間の喜びの本質がある」
としています。
そんな考えを述べるバタイユとハイタッチして、
私はアニメイトで消費・蕩尽を繰り返すのでした。。。
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章すべてについて触れてしまうとキリがなさそうでしたので、勝手にまとめてしまいました。
力及ばずあくまで一側面であることをご了承ください🙇♀️
以下参考にした文献です!
ご興味があればぜひ!
『バタイユ入門』、『バタイユそのパトスとタナトス』/酒井健
『呪われた部分』/ジョルジュ・バタイユ
『サルトルの息子、バタイユ』/石川学(慶應義塾大学学術情報リポジトリ論文)
『バタイユと「見出された幼年』/酒井健(法政大学学術機関リポジトリ論文)